子供と大人の境界線はあるのか
iPhoneを最新のOSにアップデートしたら、ホーム画面がおしゃれになった。どうでも良いけど気になったのは、アメーバアプリはSNSのジャンルに含まれていたのに、noteは含まれていなかったこと。(ちなみにnoteはその他のジャンルに含まれていた。)
noteはSNSじゃないのかぁ。じゃあブログと何が違うんだろう。一般的なSNSであるLINEやTwitterやInstagramよりは崇高な存在ってことなのかもしれないな。
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あなたは自分のことを子供だと思うか。それとも大人だと思うか。それともどちらでもないか。中間的な存在か。
どんな答えでもそう考える理由を聞いて「なるほどねぇ」ってなりそうだ。
今日は授業で「子ども観に応じて教育観も変化すること」について学んだ。
なんとなく子ども観というものを考えるたびに思うのだけれど、子ども観を考えている自分自身は子供なのか大人なのかどっちなのだろうか。
まだ子供ながら自分なりの経験や習得した知識に基づいて子ども観を考えているのか。形成していっているのか。
それとも教師という大人になる自分を想像して(自分が本当にすでに大人かどうかは別として)自分なりに大人という立場から子ども観を考えているのだろうか。形成していっているのか。
案外答えは出せそうにないし、こんなことはどうでも良いのかもしれないけれど、「子ども観」を考える上でじゃあそれを考えている自分は一体どんな人間なのか?子供なのか?未熟なのか?発展途上の存在なのか?大人になりかけの青年期なのか?モラトリアム人間なのか?大人なのか?
それを問い続けることには何らかの意味があるんじゃないかなぁと思っている。
まぁ意味がなくたって良いんだけどね。
「子ども観」を学校における教育で簡単に説明すると、例えばこんなのがある。
①粘土モデル–––大人(教師)が子供を決められた「型」に当てはめるような教育。理想とされる型がきちんとあって、生徒全員がその型に(模範的に)等しくおさまるような教育を教師は行う。
②作物モデル / 農耕モデル–––大人(教師)は子供(生徒)が自由にのびのびと活動できるような環境を整える。自然に、興味の赴くままに自由に学びを深めていくことを大切にする。教師はその「個」を認める、というような。
あまりに簡単な説明だけれど、子供というものに対してどんな見方や考え方をするかによって教育の仕方というのは大きく変わっていくということが(多少は)読み取っていただけただろうか。例えば①なら子供は大人によって指導されるべき未熟な存在であり、皆が同じ方向を向いて模範的な人間を目指すべきである...みたいな。例えば②なら子供は自ら学んでいくべき存在であり、自分の可能性を広げ個性を生かしていくべき、教師は時に助言をし時に褒めたり認めたりをすべきである....みたいな。
子供と大人、生徒と教師の関係はどうなのか。立場は対等なのか。子供という存在をどう捉えるかによってそれは大きく変わってくるけれど、私は教師と生徒は対等であってほしいと思っている。教師がなめられないようにある程度の権力はもちろん必要だけれどね。子供が自ら学び自分の歩む道を選択していけるようにその機会や環境を大人は守っていってあげないとなんだろうな。そういう意味では子供は「守られるべき存在」なのだろう。子供も子供で(生徒も生徒で)責任をとったりなど守ってくれる存在がいることを理解し、自由のために最低限守らなきゃいけないものがあるのかもしれない。
長くなりそうだからストップ。
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このnoteの題名「子供と大人の境界線はあるのか」という問いに関して、授業内での回答は「子供と大人の境界線は曖昧になっている」だった。大人化する子供。子供化する大人。
社会化としての教育は大人が子供に行うもの(子供が、大人によって行使されるもの)だったけれど、最近は「逆社会化」が起きている、なんていう話を聞くのは何度目だっただろうか。良い例が子供が大人にインターネットやスマホの使い方を教えている....なんてことだ。
「逆社会化」なんて言葉でわざわざ定義しなくても大人が子供から学ぶべきことはもっともっとたくさんある気がするけどなぁ。子供の生き方とか考え方とか価値観に良い意味でも悪い意味でも 大人が"ハッとさせられる"ことは意外とよくあることなのではないかなぁ。
ただの自分のための授業まとめみたいになったけれど、私は自分のことをまだまだ子供だと思っているので、「自分が子供である時に考えていた、描いていた『子ども観」について大人になっても忘れたくないなぁ、子供(生徒)の立場であった頃を忘れてはいけないなぁ、と思ったり。
終わり。