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な か ま は ず れ

多分多くの人が意図せず仲間外れにされてしまうことがあるような気がしている。自らハブられたい、疎外されたいと思ってそうなる人はいないだろう。

自ら集団というかクラスというか.....そういう集まりの中で孤独でありたいと願う人がいたとしても、孤独であることと仲間外れにされるということは大きく違う。

今なんでこんなことを考えているのか定かではないけれど、仲間外れにされたという経験をずっと引きずって.....過去から抜け出せないでいる人が少なくないことを私は知っている。

最近『砕け散るところを見せてあげる」という映画を見た。その中で主演の中川大志さん(高校生役)が、『あの時、これを"いじめ"だと感じていたら、どんどん僕は孤独になっていっただろう』というようなセリフを述べる。あの時自分が孤独だったのは、集団の多数派と呼ばれる人に馴染めなかったのは、別にみんなにいじめられていたわけではなくて、自分から近づく方法がわからなかっただけなんだ。自ら孤独を選んでいただけなんだ.....。そんなふうに考えるシーンが存在する。

結果的に中川さん演じる"彼"は、良い友達に恵まれてそれなりに異性と集団で遊べるくらいのちょっとスクールカースト上位のキャラになっちゃったりなんかして。自分はいじめを受けていると悲観的にならなかったからまた新しい人間関係を築いていけたんだ.....そんな話を少しだけしている。



仲間外れなんて、そういう空気を作っているボスが1番悪いのだ.....なんていう考えはすごく安易だ。多分その空気を生み出しているボスは家庭環境がうまくいってなかったり....なーんてこともあるだろう。心のバランスが崩れると、攻撃対象を見つけずにはいられなくなる。この気持ち、過去の私なら十分よく分かる。

でもただクラスとか部活とかサークルとかそんな集団の中で仲間外れにされたって、全ての人間関係がうまくいかないなんてことはないのだ。ただその人たちとはダメだっただけ。良い関係が築けなかっただけ。縁がなかっただけ。そう割り切って生きていく強さをくれるのも、ある意味学校生活なのだろう。

いやーな人間関係に揉まれた学生時代は、嫌な思い出も正直たくさんくれた。過去の反省が昔よりは少しは性格がマシな自分?を作り出してくれているのも事実なんだけれどね。

仲間外れならば、いじめである。いじめならば、それは仲間外れである。
これはどちらも全く当てはまらないと思っている。仲間外れにされてせいせいした、合わないと思っていたけど自分から離れる勇気もなかったから、切り捨ててくれてむしろありがたかった.....なんてこともある。だから仲間外れは一概に悪ではない。新しい集団の中で人間関係がスタートして、最初はみんな自分の居場所を求めて顔色をうかがったりするだけだ。やがて衝突して、第1派で自分がおさまるべきところを見つけられなかった人たちがおさまるまで、ちょっとした乱れが生じているだけだ。


学校という場所ほど人間関係の悩みを与えてくるものはない。でもこの悩む期間が全くないともなるとそれはそれで困るなぁと思ってしまうから不思議だ。思春期独特の感情の乱れや思考の変化を今は客観的に捉えられているからだろうか。

ごく普通の学校には行かないで勉強をする、という選択肢がもっとメジャーになっても良いと個人的には思っているけれど、でもその前に、人間関係の悩みから得た成長は、良い意味でも悪い意味でも自分にとってかけがえのないものだと思っている。

だからそれに適度に悩めるだけの環境が必要なのだ。そんなの誰がちょうどよく作れるんだよって話なんだけれど。



結局何が言いたかったんだろうな自分????でも最近書きたいことってこういうことなんだよね。自分の中でちょっとおかしいなぁと思うことを自分に改めて問いかけながら書く、みたいな。

あぁClubhouse、ブーム去ったよね。
みんな明日も、いつも通り生きようね。