海を見ると死にたくなる⑭/社会人1年目日記〜"正欲"で普通の怖さを知った〜
飲み物を売っているわけではない、少し珍しいデザインの自動販売機が目に入った。
夕暮れ時の六本木。
目の前の女性2人組が、自動販売機を見て「高っ」と驚いて歩いていった。
別方向から信号を渡ってきたカップルが、また自動販売機を見て「高っ」と言い残していった。
私と彼らの金銭感覚は、同じだった。
六本木ヒルズにあるTOHOシネマで『正欲』という映画を見た。
稲垣吾郎や新垣結衣が出演している、朝井リョウの小説を映画化したものだ。
「普通とは何か?」「普通でないものを排除していないか?」
多様性というのは、普通の人がかざしているだけの正義なのかもしれない。
自分たちは普通ではない人に寄り添い、救える、認めてあげられる….と、上から傲慢に正義を振りかざしているだけなのではないだろうか。
この映画で否応なしに感じられたのは、「普通」という言葉を使う恐怖だった。
この映画に出てくる新垣結衣は、水フェチだ。
好きなのは男とか女とか人間ではなく、水である。
稲垣吾郎は、普通ではない人間を受け入れることができない。
自分の常識の範囲を超えていく存在を、そんなはずはないと思考の外に勝手に押し出す。
普通の人が歩む普通の人生を順当に歩いてきた人間と、
普通ではないと気づいた瞬間に、普通の人のフリをして日々を過ごしてきた人間と。
対比がはっきりと描かれている映画だった。
世の中にはたくさんのコンテンツが溢れているけれど、それは全て、明日を生きたい人のためにあるよね…..と言う人が作品に登場する。
明日死ねたらいいのに、明日になったら普通の人に生まれ変わっていればいいのに、と願って何十年も生きてきた人。
両親が不慮の交通事故で死んで、自分が普通でないことがバレなくて、正直安堵したという人。
彼らの気持ちに、彼らから見て「普通」であるであろう私のような人間は、彼らを救うことなど到底できやしない。
どんな人でも受け入れるから、多様性の時代だから、あなたのことを教えてよ、と無理矢理自己開示を迫るなんてもっての他である。
稲垣吾郎さんが演じた父親のような人間を「普通」と呼ぶ人たちにも、彼らの正義がある。
彼らの生き方がある。
大勢だから、普通。
その欲求は多くの人が持つものだから、普通。
誰に打ち解けても変だとは言われないから、普通。
普通という言葉には「普通」の正義があって、この言葉を安易に使わない方が良いように感じられた。
ほんの些細なことで、自分は他の多くの人とは違うのかもしれない。
私は、「普通」ではないのかもしれない。
そんなふうに誰かと自分を比べてベッドの上で悩むことはが、体育座りをして縮こまることが、私にだって何度かあった。
その度にそんな自分を受け入れてほしいと思う自分の承認欲求に、嫌気がさした。
自分のことは自分自身で割り切れていればいい、と自分で納得できるまでに、長い年月が流れたようにも思う。
最近の私は、「こういう場面で『普通は〜』って表現をするのは良くないかもしれないですが」という、
前置きという名の逃げをかましながら、自分は悪くないと暗に相手に伝えようとしている。
少し謝罪すれば「普通」という言葉を使ってしまっていいと、配慮ができていればいいと、自分で自分に言い訳しているだけな気がしてくる。
*
普通は誰かを虐げているかもしれないが、普通は誰かを救っている。
誰かの使う「それが普通でしょ」という表現に、共感に、プラスの感想に、私も普通で良かったと安堵できる人がいる。
普通であると誰かに認められることで、自分を救ってあげられる人がいる。
私は誰のことも救えない、誰かを救えるなんていう傲慢な人間になりたくない。
でも自分が普通ではないと感じる人が生きやすい社会をつくるために、何かしたいと思ってしまう。
これも正義の押し付けなのだろうか。そっとしておいてほしいと望む人もいるかもしれないし。
これも「あくまで自分は大衆側」という、一ラインを引いた上での傲慢な発言なのだろうか。暗に対等でないと感じる人もいるかもしれないし。
そんなふうに考えたら、キリがない。
キリがないことを考え続けることには必ず意味があると、改めて教えてくれる映画だったのかもしれない。