自由になったからこその「何のために生きてるんだろう」という問い
明日は半年ぶりの庭でのイベントの日
ずっと前から雨の予報でしたが、さあどうなる?
昨年も、雨が続いている中、絶対晴れると信じて準備を進め、
当日の朝、ぽかっとその日だけピーカン☀となった。
なので、あまり心配はしていない。家族のだれも、、、(笑)
あんまり誰も心配しないもんだから、仕方なく私が、雨の場合の対策を決めて、参加予定の皆さんに告知するという、本当に信じて疑わない家族。
さて、相変わらず、毎日毎日、庭で作業をしています。
気持ちよい季節。たくさんの花が芽吹いて、植えた花や木がどんどんと成長し、よい風景になって来ました。一年で一番好きな季節です。
でも、なんだか不安定な気持ちになっていることに気づいたので、なんでかな~って考えていました。
オットに、「ひとりで完結しようとしてるからちゃう?」と言われて、、、。
そうは言っても、私は人に会うのが苦手だし、できるだけ一人でいたいのに、人に会わなきゃいけないもんだろうか?
だけど、不安定な気持ちは、仕事に行かなくてよくなった、本当に時間が自由に使えて、好きな時に好きなだけ好きなことができる、という贅沢を味わって、何のストレスもなく、幸せだからこそ、のような気がする。
先日の記事と裏腹になって来るのだけど・・・
裏腹なのだけど、それが今の感情。
いくら庭を心地よく手入れしたところで、私がいなくなったら、途端にこの庭は荒れ始めるだろうな、、、じゃあ、何のためにやってるんだろう?
生きがいだと感じているけど、何のために生きてるんだろう?
50代後半になって今さらですが。
オット曰く、「自分ひとりのために生きていても意味がない。誰かと一緒に、なにかをすることが大事」だという。オットは、10代の頃から、そんなことを考えていたそう。何のために生きてる?生きてるってなんだ?何か意味があるのか?死んでもいいんじゃないか。そんな風に思っていたらしい。
自分ひとりのためなら、生きていても仕方ないから死んでもいいかも?ということだと悟ったそう。
私は、ぼ~んやり生きて来たので、「死ぬ」ことについて、今更考えている感じ。
でも、それは自由になったことで「老後」が近づいた感じがしたからだと思っていたけど、というよりは、「時間」ができたから、だと思う。
子育て中やサラリーマンをしていた時は、とにかく時間に追われていたし、社会の中で役割を果たしているという安心感というか、それにかまけて考えることがなかった。
「いつか死ぬんだ」
こんな当たり前の事すら、考えることがないくらい、バタバタしていた。
で、昨日は一日、「このむなしさ?はなんだろう?この落ち着かない感じは何だろう?何のために生きてるんだろう?どうせ死ぬのに。段々、あちこち身体も不自由になって、生きてるのがしんどくなるんだろうに」
そんな感情に包まれていた。
そして今朝。
起きぬけに、まだまどろんでいる状態で浮かんできた言葉。
「分かち合う」
「感動が大事」
と、私は浮かんできたことをオットにベッドの中でいきなりしゃべり始めた。
オットはまだ半分眠っていて、生返事だったけど、しゃべり続けていた。
オットが言うように、一人で完結しているから虚しい。
当たり前のことのようだけど、
庭を造るのが趣味なら、その庭の心地よさを誰かに分かち合うこと。
分かち合って、一緒に感動すること。
それが大事だし、本当は望んでいるんだろうな。
私の庭に誰かを呼んでみたり、親しい人の庭を訪ねてみようと思う。
そして、明日のようなイベントも、庭で続けていきたい。
そして、自分ひとりで庭で色々実験しているのに加えて、大学で学ぶことになったのは、前に書いた「ひそかな企み」的な、「私の住んでいる街を美しくしたい」という願いを実現するための知識や縁を得るためかもしれない。
私ひとりではできない、でも、庭だけじゃなくて、街が美しくなれば、私がいなくなった後も、誰かが引き継いでくれるし喜んでくれる。
そんなことのために生きたいと思っているんだな。
ということで、大学在学中にせっせと学ぶことにしようと思います。
芸術大学ということで、昔文学部にいた頃とは違って、課題の一つ一つに、自分の「美意識」を問われます。シラバスにはっきりと「美意識をもって書きなさい」と謳われている、、、😮
「美意識」について、またnoteに書きたいなと思いますが、大学でそういうことを学んで人生に生かして行けたらいいな。
生き方についても、美意識を持って生きられたら素敵だな。
自分ひとりのことじゃない。世界が美しくなるように、小さなことでもできる自分でありたいなと思えたことで、昨日の問いに答えを得たような気がします。
とにかく明日は、イベント楽しもう🌟
私が作った庭で、みんなにくつろいでもらえる大事な日🤗