庭の話
「ねえ、庭の話をしない?」
そう唐突にイツキは話しかけてきた。
「分かった。」
その日の最後の授業が終わってロッカーに教科書をしまいながら返事をした。どこか店に入ろうと提案すると、もう決めている、と駅に向かって歩き始めている。イツキと並んで歩くのは苦手だった。学校内でも外でも人の目を引き付けすぎる、そんな人間の隣を歩くのはあまりいい気分ではない。
「気に入っている店があるんだ。繁盛していないが清潔で君が好きそうな感じだ」
「気に入ってる理由は?」
イツキが私のために店を選ぶことはまずない。イツキを囲む私以外の人間のために選ぶことはあったとしても、私にはないのだ。遠慮や気遣いや駆け引きをする気が無い。私にもその気は無いがそれが嬉しいといえば違うし、悔しいというのもまた違っている。イツキの存在やイツキからもたらされる感情は私の持つ常識や価値観にいつも当てはまらなかった。
「そこの店員さん、可愛いくてさ。ハルさんって呼んでる」と言いながら裏道に入っていく。繁華街から逸れていく道なりには飲食店もカラオケもない代わりに表通りの建物の裏側が並んでいる。ホルモン屋の裏を通ると香ばしい焼けた肉のにおいがした。
「へえ、」と私が立ち止まったのは古本屋の前だった。見て行くかと提案されたが、一人の時に来ようと断った。ここだよ、とイツキに言われた店は古本屋から二、三軒離れた場所だった。店の前に置かれたディーゼルには癖のある丸文字で本日のメニューが書かれていた。
カランコロンと鳴る扉を進んで店員に案内される。イツキは店員と談笑しながら勝手に二人分のランチを頼んだ。
「脈は無さそうだな」
「今日は連絡先聞けると思うんだよね」
水を飲みながら、厨房にオーダーを通している彼女を目で追っているイツキを冷めた目で見ていた。イツキの恋愛事情もまた私の価値観にはまらないからだ。
「さて、庭の話をしよう」
店員の彼女について私が言及しないことを察するとすんなり本題を始めた。
「みんなが持っている庭の話だ。」と、いつもの眼光が私を刺して続ける。
「例えば君の庭の話をしよう。君の庭はこの店に似ている。庭の入り口は奥まった場所にある上に入るには体を横にしたりかがんだりしなければならない。でも一度入ってしまえば、よく手入れされていて居心地も悪くはない、入ってくる人は少ないけど。でも次回からは手厚く迎えてくれる、一見さんお断りの庭だね。」
庭が人との関わり方を表しているとして、揶揄されているような褒められているようなバランスの悪い言い様だ。主観的には言い得て妙だと思う。ただ悔しかったのでムキになる。
「それならイツキの庭は立地も分かりやすくて入り口も広い、だが遊びに来たつもりがいつの間にか追い出されている。それに庭で一緒に遊んでたつもりが本体はかなり高く遠いところで見ているだけ。癖の多い庭って感じ。」
「これだから君には優しくできない。」と、鋭い眼光を無くしたイツキが言う。私が図星を突いたからではなく、ただそこにランチを運びに来たあの店員がいたからである。彼女を見つめる柔らかい眼差しと少しだけ高く甘くなる声でランチを受け取ると私と目を合わせることなく食べ始めた。
「あの店員の庭は?」と仕方なく問いかけた。柔らかな眼差しが彼女を追っている。せわしなく咀嚼する口元に女っぽさを感じる。私も同じようにランチを食べることにした。
「常連にはもっと優しくするべきだよ」と、細めた目で片方の口角を上げてくる。細めた目の奥には私への競争心が光っている。だからこの店の常連であるイツキの話ではなく、私の庭の常連であるイツキの話をしているのだとすぐに分かった。
「まだ連絡先は聞くべきじゃないね」と笑って言ってやった。
食べ終わったところで、またねと言って伝票を持ってレジに向かうとあの店員がレジに付いた。
「私の分のデザートもあの人に渡してください」
「イツキくん喜ぶだろうね。」
イツキの座っている方にちらっと目をやって、私の方に視線を戻して笑いかけてくる。営業と分かっていながらも、居心地の悪さを感じてお釣りを受け取ってすぐに外に出た。
店から出て迷うことなく古本屋に入っていた。イツキが人にどう呼ばれようが気にしたことはない。イツキ自身も呼び名に強制も訂正も拒否もしない。私がイツキの庭について、本体が高く遠くにある、と言ったのは相手の求める者にいつも化けてしまうところだ。しかも楽しんで化けている。
古本屋の一番奥の棚の前で深呼吸をした。古い本のにおい、天窓に照らされて可視化できるほこり、埋め尽くす背表紙だけの視界がさっき思い浮かべた私の庭に連れて行ってくれる気がした。イツキはあの店員の庭に入れただろうか。それとも自分の庭に招待したのだろうか。
ふと、さっきの店員に笑いかけられた時の居心地の悪さを感じた理由が分かった。