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デーリン・ニグリオファ『喉に棲むあるひとりの幽霊』吉田育未訳、作品社

作者の自伝的要素が濃い小説。アイルランドなら誰でも知っている18世紀の女性アイリーン・ドブの長編詩に惹かれた主人公が、この詩を翻訳したいと思い、そのためにアイリーンの人生を調べていく。主人公は3人の子育て真っ最中の若い女性で、そのうえ4人めの子を死産しかけたり、自分の胸にしこりが見つかったりし、いい加減忙しいのに、その上に人助けもしないではいられない性分。大変な生活のなかで、必死で時間を作り出してアイリーンについて調べる。だんだんアイリーンの人生が自分の人生に重なっていく。

アイリーンの長編詩(クイネ=哀歌)のクライマックスは愛する夫が敵に殺され、その遺体にひざまずいて血を手ですくって飲む場面。そしてそのあとは夫の死への嘆きがストレートに力強く繰り返される。憎いものは憎いと繰り返し言う。アイルランド独特の素朴な力づよさ。

アイリーンのこのクイネはアイルランドでは非常に有名な口承詩で、すでにいくつも英語への翻訳があるものの、主人公は自分の思いを込めて翻訳したいと思うのだ。それほど思い入れがある。ひとつには、女性の人生が記録もされず忘れられる一方であることへの抵抗がありそうだ。自分自身も家事や育児に追われる毎日で、家族を愛してはいるものの、なにか満たされないものがある。

母としての毎日を描くところどころに〈翻訳〉についての考えが現れるのが面白い。たとえば、詩の連は英語ではスタンザで意味は「部屋」なので、詩の翻訳をすることを自分の家の部屋を整えることに似ていると感じる。また、翻訳という行為の暴力性のようなものも感じていて、自分がアイリーンを訳すことにためらいもあるのだ。

とにかく全篇、作者の「女性性」、「母性」がむせかえるように溢れている。それがこの作者の強烈な個性だ。母性のドライブが場合によっては一部の読者を置いて突っ走っていきそう。小説の冒頭と最後に「これは女のテクスト」であるという文が置かれるが、男の論理ではなく、女の情熱や衝動や生理がこの小説の核になっている。女の声は歴史から削除されつづけてきたが、そんな女の声のひとつをここにしっかりと書き込んだ、そういう小説だと思う。


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