武田百合子『遊覧日記』ちくま文庫
久しぶりにnoteを書く。たまたま英語の小説をつづけて読んでいたり、図書館で予約した日本語の本をなかなか取りに行けなかったりで、しばらく書くことがなかった。このままではnoteから遠ざかってしまいそう…。そんなとき、わたしは武田百合子を読むのです。この『遊覧日記』は何度読んだかわからないのだけど、今度も面白く(そして「百合子さん、文章うまいなぁ」と唸りながら)読んだ。
浅草や上野など賑やかだがわびしさが漂うような下町が百合子さんにはほんとうに似合う。そこで見かける人々は活動的だったり、じっとしていたり、金儲けをしたり、食べたり飲んだりしゃべったり、ときには転んだり(!)しながら生きている。そんな街で百合子さんと娘の花さんが遊覧するのだ。人生、残り少なくなったら、こんな風に楽しいことをしながら生きていけばいい。お金もそんなにかからない。
本の初めは浅草の花屋敷の章。人が少なくても大勢いてもどこかさびれたたたずまいの花屋敷で、見かけた人をただ描写する。ベンチに座って池を見ている体格の大きな金髪の中年女と、その脇の小柄な日本人の男。女は元ストリッパーかもしれない。(この二人は花さんが撮った写真もある。)この二人の風情だけで、たまらない気持ちになる。こういうときにぴったりした形容詞はないものか。せつない、わびしい、さびしい、かなしい、なつかしい、いとしい、そういう言葉を全部足したような形容詞が。
「青山」と題された章だって、描かれているのは終戦直後の日本をひきずっているような裏町だ。ある家の前を通りかかったら、そこに住む老婆が中に入ってお茶を飲めという。粗末な家の中に入ると、おぼつかない手でこぼしながらお茶を入れ、せんべいを出してくれる。夫はリヤカーで貝を売る商売をしていたと昔話を始める。「今度5月3日に来なさい。いっしょにご飯を食べよう」と百合子さんに言ったのでその日に行くと、老婆は何も覚えておらず、怪訝な顔をする。そして次に通りかかると家は空き家になっていて、その次に通りかかると取り壊されて平地になっている。このどこか凄みのある終わり方……。
「遊覧」という言葉を思いついたのは、むかし住んでいた家にいた住み込みの女中さんの思い出かららしい。彼女は休みの日に東京のあちこちに出かけるのが楽しみだった。あるとき南極観測船が出航するのを見たいと思い、桟橋まで出かけていく。そして「わたしはもう泣きながら万歳万歳と言いました」と充実の休日を報告するのだ。
あとがきにはもうひとつのエピソードも書かれている。田舎のあるおばあさんが、ある日見たこともない長い雲を見る。その雲のはじっこを確認したいと思い、どんどん歩いていく。雲が途切れたところにいたのは草笛を吹く汚いおじいさんで、特に面白いものではなかった。百円あげて帰ってきた。
「行ってみたい」と思って、そして出かけること。それが遊覧だ。それが人生を楽しむということなのだろう。簡単なのに、(自分には)なかなかできないことでもある。