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コルム・トビーン『マリアが語り遺したこと』栩木伸明訳 (新潮クレスト)

2021/2/7

マリアとはキリストの母のマリア。自分が産んだ子があるときから人前で説教をするようになり、母親から離れ、奇跡を行うようになる。弟子ができ、ファンが増える。しかし最初から最後まで、母の眼から見ると息子であるし、その行動も賛成できないものなのだ。

死んだラザロを墓の下から蘇らせた話。蘇ったあとラザロがどうなったか。実は半分死んだような病人として過ごすことになるのだ。母マリアはそんなラザロや姉たちを見守っている。そのまま死んだままにしておけばよかったのに。自分の能力を人に見せびらかすためにラザロを利用したように見えてしまう。また婚礼で葡萄酒が切れたときに大甕に水を持ってこさせ、それを葡萄酒に変えたときも母マリアはそれを目撃するが一向に感心はしない。

そして磔。人々が興奮する広場でマリアは息子の死を見届けるが、自分自身も捕らえられようとしており、その場から弟子とマリア(ラザロの姉)と共に逃げ出す。それなのに弟子二人(福音書を書こうとしてマリアからさかんに話を聞き出そうとする)は二人のマリアが十字架から下ろされたキリストの身体を清めて埋葬したと主張するのだ。

弟子二人はキリストが世界を救うことになると熱心に言うがマリアは冷たく「あれはただの骨折り損でした。まったくのくたびれもうけだった」と言い切るのである。

歴史を書き残す人は自分が見たい歴史を書き残すということか。そしてそれはたいてい男なのである。(マリアは文字が読めないとされていて、書き言葉の弟子たちと話し言葉のマリアの対比がある。)そういう男たちに囲まれて、自分が見た現実を口にするのを曲げないということはなかなかできるものではない。ついつい自分で自分を言いくるめてしまうことが多いのではないか。

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