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マーガレット・アトウッド『侍女の物語』斎藤英治訳(早川書房)

再読のディストピア小説。トランプが大統領になったとき、オーウェルの『1984年』とともによく売れたということが話題になった。でも今回読み返してみて、トランプのアメリカよりも、むしろ自民党政権の日本のことをたびたび考えさせられた。

さて、どんな小説でも、手にとって読み始める読者にとってはいきなり別の世界に入るわけだから、ある程度はしんどいものだが、ディストピア小説はたいてい冒頭からいきなりひどい社会に入っていくのだから、特別にしんどい。しかし、読み始めるとどんどん先を知りたくなる。作家の手腕だ。アトウッド、さすが。一気に読みました。

舞台となったギレアデ国では環境破壊などのために人口が減少しつづけており、出産可能な女たちが集められて、生殖のために司令官たちに配属される。赤い服を着せられ、名前さえ奪われて、子を産むことだけ期待される「侍女」たちだ。(女について、子供を産む機械のように発言した自民党の老政治家を思い出す。)出産可能でない女たちは別の色の服を着て、雑役などをする。しかし全体主義の国によくあるように、一般市民は不自由な暮らしを強制されているが司令官たちはこっそり本も読めるし、性の快楽にふけったりもしている。

『1984年』と同じように、そんな中でも抵抗しようとする秘密の組織があるが、主人公はそこに入って戦うわけでもない。ひどい全体主義の国で生きることになったら、普通の人間はこんなふうに対処するしかないのだろうと想像されるような生き方をする。なにしろ罪を犯したら、死んだ方がマシという境遇が待っているのだ。読者も含めてたいていの人はドラマチックな英雄にはなれない。

『1984年』と共通する点は多いが、印象に残るのは言葉だ。言葉が国家に管理され、押しつけられる。自由な個人の言葉は禁じられる。『1984年』の主人公はこっそりノートを入手して日記を書いた。『侍女の物語』ではそもそも筆記用具は与えられないし、本というものは処分されている。しかし部屋に住んでいた前の侍女がクロゼットに刻んだ謎の言葉を見つけてそれを心の支えにしている。言葉の自由は大事なもの。言葉の定義を閣議決定してしまう日本は、けっこうディストピアに近い。

最後がいい。ギレアデ国が滅亡した(らしい)のち、歴史学者たちが学会でその国について研究報告するのだ。あの悲惨な日々が完全に過去の出来事として報告される。大学の研究者の雰囲気がにじみ出ていて、そこで研究経過を報告する者たちはみんなたぶん男性である。自由を奪われて極限の日々を生きた女性について、研究対象としてこれらの男性たちが語るという皮肉なエンディング。

しかしヒロインはあれからどうなったのか。続編の『誓願』も読まないわけにはいかないなぁ。ということでさきほどマーケットプレイスで注文したのであった。


追記(自分メモ):ヒロインは自分の部屋のクロゼットに刻まれた謎の言葉(ラテン語のようだ)を見つける。この部屋で自分と同じ侍女だった女性が残した言葉だ。意味がわからないまま、自分を励ます言葉として大事にする。ところが司令官との会話から、それが彼が男子校の学生のときにふざけて作ったデタラメなラテン語であると知る。「奴らに虐げられるな」という意味だ。ラテン語はもともと教養ある階級の男性に所属する言語であり、この小説では司令官たちの階級。彼らがふざけて作ったラテン語もどきの文を被支配階級の侍女は受取り、それを逆転させて自分を励ます密かなメッセージとした。それを刻んだ侍女はどれだけその逆転を意識していたのだろうか。(このあたり、ネルソン・マンデラが刑務所に長年収容されていたときにヴィクトリア時代の植民地主義者ヘンリーの愛国的な詩を愛唱して自分を励ました話を思い出した。被支配階級が支配階級の言葉を逆転的に使用する。)


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