平野啓一郎『ある男』文春文庫
映画を見てから原作を読んだ。両者にいろいろ違いがあるのは当たり前だが、原作がやや情報過多なのに対して、映画は部分的に変えながらうまくまとめていると思った。
とても面白い内容である。殺人者の息子である男が、生きるのが辛くて別人と戸籍を交換し、その人となって別の人生を生きる。出身や家族や悩みなどの情報も自分のものとする。なるほど、今の人生をキャンセルして、乗り換えたいと思うこともあるのかもしれない。主人公は事件を調べる弁護士の城戸だが、彼は在日三世で日本に帰化しているので、これもどこか人生を取り換えることに似ている。男は九州で暖かい家庭をつくり、幸せに暮らしているが、山の事故で死んでしまう。そこから戸籍のことが発覚する。
映画よりも原作の主人公の方が生々しく人間的に描かれている。ただ原作は焦点を当てる人物がとても多くて、それぞれの人の心情も書きこまれるわけだから、あちこちと忙しい。おまけに推理物としての複雑さもある。それを映画は戸籍を変えた男Xに重心を置き、弁護士をそれに対置させるかたちにしている。交換した名前を本来持つ男やその恋人美涼は映画では軽めの扱い。それが成功していると思う。原作では弁護士は結構ふらついていて、美涼に惹かれたりする。
面白い小説ではあったけれど、わたしはやっぱり平野啓一郎という作家があまり好みじゃないんだなぁ。前に読んだ『マチネの終わりに』もちょっと苛ついてしまったが、今回もあまりに饒舌なのが気になった。平野さんは音楽好きなので、あちこちにアーティスト名や曲名が出て、それもきっと大事な雰囲気づくりなのだろうが、ちょっと出過ぎだと思う。また平野さんはたぶん美人が好きなのだと思うが、女性の顔だちをやたらと描写する。それ以外にも、「こういう情報は削ったら?」と言いたくなる記述がたいへん多かった。九州が出てくることで、ちょっとだけ吉田修一に似た要素もあるが、吉田修一の方が文章がきっぱりしている。きりつめて書いているために作品に強度がある。と、わたしは思いました。
面白いストーリーだし、戸籍交換の仲介者である服役中の男(すごく濃いキャラクター)のような人物を創り出したのも素晴らしいと思う。でもわたしはこの人の小説はもう読まないかな。どうも相性が良くないみたいなんですよね。