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國分功一郎『目的への抵抗』新潮新書

『暇と退屈の倫理学』からさらに考えを発展させたというこの本。前半はコロナの最中での高校生向き授業の記録で、後半は東大の学期終了後にやった「講話」の記録。ともに質疑応答つき。

前半ではっとする指摘があった。それは自分にとって大事な指摘だった。

コロナ初期にどこの国でも移動が制限されたことについて、アガンベンが人々がその制限を従順に受け入れていることについて異議を唱えたのだが、それが「炎上」したらしい。アガンベンは、人が行きたいところに移動できる自由はほかのいろいろある自由のひとつではなく、基本的な重要な自由なのだと言う。コロナの感染を防ぐために必要だからと国から言われて、人々が疑いを持たずに従ったことを彼は問題視したのだ。

彼の考えの根本にあるのは、コロナに感染しないこと、つまり生存することが最優先される社会でいいのだろうか、という疑問だ。ただ生命があればいいという考えをアガンベンは「むき出しの生」と呼ぶ。

振り返ればあのころわたしも、コロナに感染しないこと、つまり死なないことを最優先に考えていたと思う。移動の自由を失うことについては、もともと移動するのがそれほど好きでないため、あまり苦痛でなかった。家にいるのが好きだったのだ。それより、非常事態として家にこもっていることにちょっとした興奮さえ感じていた(もっとも仕事はたいへんだったのだが)。マスクをしたがらない人、イベントなど人が集まる場所に行きたがる人については呆れていた。でもそういう人たちはその人たちなりに、自分が生きたいスタイルがあったのだろう。

こんなことを今更考えるなんて恥ずかしいのだが、いったい自分が望んでいる「生」とはどのようなものなんだろう。安全第一でいいのだろうか。

そんなことを考えていたとき、たまたま以前読んだ『急に具合が悪くなる』を再読することになった。そのときの感想はこちらです。癌になってもぎりぎりまで自分らしく生きようとする宮野さんに感動しながら、自分にはとてもできないし、やろうともしないだろうと思っていた。安全が大事だから。生存が大事だから。

けっきょく『急に具合が悪くなる』が訴えているのもアガンベンと同じことなんだと思う。つまり、生命があるという状態(むき出しの生)でいいのかということ。そうじゃないでしょ、ということ。では、どう生きるのかということ。


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