きたやまおさむ『「むなしさ」の味わい方』岩波書店
著者名は「きたやまおさむ」という表記になっているけれど、わたしにとってこの人は「北山修」、それも「さん」付けしないではいられない人だ。フォーク・クルセーダーズが大ヒットしたときはたしか中学生だったと思う。ファンというよりも、彼は憧れの人だった。
ほかのメンバーたちは音楽の仕事をつづけたが、北山さんはしばらくして歌の世界からあっさり消えて、精神分析の道に進んだ。やっぱりエリートなんだな、と思った。ちょっとさびしかった。
それから何十年もたって、ある日加藤和彦の自殺のニュースが飛び込んできた。まっさきに思ったのが「なぜ助けてあげられなかったのか」という疑問だった。古い仲間が立派な精神科医になっていたというのに、どうして助けることができなかったのだろう、と。わたしだけでなく、当時のフォークルを知っていた人なら残念でしかたなかっただろう。それを声に出して言った人もいたかもしれない。しかしそれでも無理だったのだと、この本を読んでわかった。彼がこの本を書いたほんとうの動機はその無念さにあったのかもしれない。
「彼の『死にたい』と言う気持ちと向かい合って聞くことができていなかった」と北山さんは言う。楽しい時代を共有していた人間とはどうしてもそういう暗い話をしにくかったのだろうと。自分が精神科医としての経験を積んでいながら、かけがえのない大事な友人を助けられなかった。それほど「むなしさ」を感じさせることがあるだろうか。
本の内容からずいぶん離れた感想になってしまった。わたしも年齢が年齢なので、人間が老いて「むなしさ」を感じることについては特に不思議とも残念だとも思わない。この本を手にした理由も、むなしい気持ちをどうにかしたいと思ったからではない。なので、肝心の「むなしさの味わい方」についてはそれほど熱心に読むことはなかったけれど、面白いと思った話もいくつかあった。
たとえば、イザナギ・イザナミの話。死後に腐乱して醜い姿になったイザナミについて書きながら、著者は若いころに音楽をやっていた自分たちが「女の腐ったようなやつ」と言われて傷ついたことを思い出す。そして芸術の創造とは男性性と女性性の間から生まれるものではと思い直すのだ。若い頃に一気に人気者になり、それから飄然とそこから去っていった、そういう人だと思っていたが、彼にとってあの時代の出来事はそんな簡単なものではなかった。あれから数十年たってこの本を読み、かつての憧れの人の背中を遠くから見た気がしたのだった。