ひとりのじかん
ひとりの時間が欲しい。
たぶん、世の中の子育てをしている女性の大半はそう思っている。
逆に、ひとりの時間が苦痛な人だっているのだろう。
それはさておき、自分の話をしよう。
私には、ひとりの時間が必要だ。
ひとりの時間が必要になったのはいつからなのか。
おそらく、大学生になってからだ。
1人で昼ご飯を食べることができるようになって、大袈裟に言えば私の世界は広がった。
どこで何を食べるか、他の人の意見を気にせずに、自分が食べたいときに食べたいものを食べても、何も問題がないことに気づいた。
なんて楽なんだ。
高校までは、逆にひとりでお弁当を食べることにならないように、すごく気を使っていた。一緒に食べる子がいないなんて恥ずかしいことだと思っていた。
ポエマーな言い方をすると、飛べることができることに気づいた鳥のように、私は色んなところに1人で行ってみるようになった。
喫茶店、映画館、吉野家、王将にはじまり、カラオケ、焼き肉、花巻にも行った。
初めて1人で行った喫茶店で、それこそ初めてサバランなるケーキを注文し、
あ、これ好きじゃないやつ…
と後悔しながら何とか食べ切ったのも、今となればいい思い出だ。
王将の天津飯にハマり、いつもありがとうございます、と声をかけられたりもした。
いや別にずっとボッチだったわけではない(と信じたい)
友人と旅行に行ったりもしたし、一緒に映画を観に行くことだってある。
でも誰かと一緒に行く場合、ひとりで行くより気を使うのは事実だ。
昔、友人を誘ってダンサーインザダークを観に行ってしまって、非常に申し訳なかった。あれはひとりで観に行った方が良かった。
まあ別に、一緒に行くからと相手をもてなす必要はないのだけれど、ひとりで行く時よりは守りに入る。ひとりなら失敗しても構わないが、相手につまらない思いをさせるのは申し訳ない、とか考えてしまう。
もちろん、誰かと一緒の良さもある。
こんなことを書いておいて何だが、友人に誘われるのは本当に嬉しいのだ。
自分が気にしているにもかかわらず、逆に誘われた映画がつまらなくたって私は別に構わないのだ。
話を戻そう。
自分ひとりの部屋、というヴァージニア・ウルフの本がある。
別に私は作家でもフェミニストでもない(つもり)だが、この本には心を揺さぶられるものがあった。
私が私であるためには、ひとりの時間とひとりの空間が必要なのだ。
じゃないと私は流されてしまう。
周りの思惑や期待に、ついつい応えたくなってしまうのだ。
別にいい人ぶっているわけではない。
嫌われると面倒だという打算だって大きい。
こうありたい自分を再確認するために、私は今日もひとり孤独を愛するのだ。