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『嫌われる勇気』をよんだ

私の世代だと多くの人は、子供の頃から「行動のレベル」で人から認められる様に教え込まれているのだろう。私もその一人である。

自分や他人を「存在のレベル」で受け入れるということも、なんだか宗教じみて聞こえるが、良く聞く言葉である。
大好きな映画『ブリジット・ジョーンズの日記パート1』では、ドジでぽっちゃりなブリジットちゃんでも「そのままのあなたで」というメッセージで全編が描かれる。その映画をみて、自分を慰めては、鏡に映る自分の姿にがっかり、なんてこともよくある事であった。まー ブリジット・ジョーンズの日記は、関係ないが「良く聞く言葉よね」くらいに捉えていたということだ。

しかし、今までのそれとは違い、本書では

「そんなもの宗教じみているじゃないですか?」

「なんの根拠があるんですか?」

などと、「存在のレベルの受容」を説く哲人に対して直接、懐疑をぶつける人が本の中に登場する。

そして、激しい議論の上に納得させられた上で「存在のレベル」を受容していく。その姿はもう滑稽極まりないほどである。

しかしながら、その滑稽極まりない青年と自分がとってもよく似ており、読んでいるこっち側もいつの間にか共感してしまう。

この本の凄いところは、このように哲人と青年の対話形式なところ。対話形式で自分の感情を代弁してくれる人がいることで、感情から共感し、気が付くと腹落ちしているのである。


そして、一番最初に心を奪われた言葉は、哲人が言った

もし、私の前に「あらゆる人から好かれる人生」と「自分のことを嫌っている人がいる人生」があったとして「どちらか一方を選べ」と言われたら、迷わず後者を選ぶ。』


という言葉。

自分の人生をまるごと否定し、一変してくれた言葉。「私の今までの人生は、一体何だったのだろう」とちょっと凹みつつ、読破した翌日の晴れやかさは、心地よいものだった。

何十年も生きてきた人生、これからもとくに大きく変化はないだろうけれど、晴れやかに生きることが出来るなら、読んだ価値ありである。

しかし、一点だけ悔しいことがある。

この本が世に浸透すればするほど、若い人たちは「『課題の分離』って、『存在の受容』って、そんなの当たり前じゃないの」くらいのレベルで育つことに嫉妬してしまう。

昔に先進的と言われ、新しい視点をくれた画期的な本は、いまでは、とうに当たり前となっているのだ。

人間関係の悩みなしに、この考え方を持って育つ子供たち、くやしいがより良い世界を作って欲しい。

そして、『課題の分離』と『存在の受容』が当たり前となった世界において、どの様な世界となるのか、またそこに生まれる新たな問題や人々の悩みとは何に変わっているのか。

ぜひとも見てみたいし、体験してみたい。

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