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名前のない植物たち

100円ショップで目当てのものをカゴに入れ、会計に向かう途中でふと、家にある観葉植物のことが頭に浮かんだ。
「栄養剤でも買って行こうかな」と園芸コーナに足が向く。栄養剤とは、ペットボトルみたいな容器に入った緑色の液体型の肥料のこと。キャップを開けるとシャワーのように出てきて、葉にかかっても安心なので大雑把な私には非常に使い勝手が良いものだった。売り場に並んだ商品を手に取ったとき、少しウキウキしている自分に驚いた。まるで家で待っている家族にお土産でも買っていくような心持ちだったからだ。私はいつから植物にそんな気持ちを抱いていたのだろう。

植物を家に置くようになって一年が経った。一人暮らし歴は長いものの、植物を部屋に置くのは初めてだった。これまでずっと出勤中心の会社に勤めていたのだが、新しい職場は在宅の割合も増えて、パッとしない部屋に彩りを求めたのがきっかけだった。

選んだのは、いかにも観葉植物らしいサンスベリアと、まっすぐに伸びた幹から、私の手のひらと同じくらいの葉を自慢げに広げるゴムの木だった。そのころはまだ、これといった思い入れもなく、在宅中にパソコンの向こうにぼんやり見える背景のひとつに過ぎなかった。

冬になると植物に変化が訪れた。ゴムの木の葉っぱが黄色く変化し、落ち始めた。心配になって日光に当てたり肥料をやったり、できるだけ暖かい場所に置いたりしたものの、葉っぱ一枚また一枚と落ちていった。ついには真っ直ぐに伸びた幹に2枚しかなくなってしまった。その姿は爪楊枝みたいで、誇らしげに広げていた葉っぱをなくしたゴムの木は、急に弱々しく見えた。
ときを同じくしてサンスベリアの土に虫が付く事件が起こり、植物を置いたことにちょっぴり後悔した。昔飼っていた犬と違って、植物は触れあえることもなければ、一緒に散歩もできない。何かを共有する実感を持てない生き物だと思ったし、想像よりはるかに繊細で、ズボラな私から見たら面倒な同居人という立ち位置になっていた。

春になると、爪楊枝のようなゴムの木のてっぺんが急にむくむくと伸び始め、蕾のような膨らみができた。しばらく沈黙が続いたあと、蕾がパッと開くと4つの小さな葉っぱが生まれた。話しかけてもうんともすんとも言わない同居人から、いきなり「おはよう」と声をかけられたような気分だった。意思疎通ができなくても、一緒にいるだけで生まれる気持ちがある。小さく心が振れるたびに、少しずつ距離が縮まった気がする。

それからふくよかな幹が特長のバオバブが加わり、名前は忘れたけれど雪の結晶みたいな棘を持つ小さなサボテンと、ちっとも成長しない多肉植物。最近は白と黄緑の放物線が美しいオリズルランと少しずつ仲間が増えていった。
一年前よりにぎやかな部屋で待つ植物たちに、お土産と言わんばかりに栄養剤を買おうとしたのが冒頭の話だ。でも、不思議なのは名前がないこと。犬には名前以外にも家族で呼んでいたあだ名が10個以上あった。けれど、植物に名前をつけたりはしない。それが人と植物の距離感なのだろうか。まだまだわからないことだらけの同居人たちとの暮らしの観察は続く。

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mimimi
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