古い自分の頭の中を覗いてみたら、生物としては今より随分新しい細胞だったことに気づいた話
風が強い。
今日は外に出ないぞ、と決めて朝からダラダラしている。
とあるSNSで自分が投稿した記事を探していて、数年分の投稿をランダムに振り返っていた。
心当たりの記事はちゃんと見つかったのだけれど、昔のわたし、の頭の中を覗いてみるのが面白くなってきて、止まらない。
驚くことに、好きだと思った誰かの文章や面白いと思った情報について紹介しているものについて、ほとんど内容を覚えていないのだ。
自分の日常について自分で切り取ったものは、なんとなくまだ記憶があるのだけれど、他人の書いた文章や情報については、リンク先を読むまで全然思い出せなくて、最後の方まで読んでからようやく、ああ、あれか!と思い出す。
あんなに感銘を受けて誰かに伝えたい!と思った気持ちはなんだったのだろう。
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今より断然フレッシュな細胞で受け止めた感動は、記憶という格納場所からいつのまにか蒸発してしまっていた。
数年後のわたし、は確実に今日より細胞が古くなっているということに、いまごろ気づく。
今の自分が一番新しい
昨日自分で書いた言葉が重くのしかかる。
だから、記録するための場所が生まれたのかもしれない。
ここnoteやSNSという記録媒体があれば、私たちは情報を失わずにいられる。
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思っているより人の記憶は頼りにならない。
言葉は、心を動かせても、頭には残らないものなのかもしれない。
でも、記憶にはなくても、そのとき心を動かされた事実に変わりはない。
心が動くと身体も動かしたくなることが、ある。
なにかをやりたい、とか、私にもできるかもしれない、と心と身体が繋がって、小さくてもなにかを変えた経験は誰にでもあるのだと思う。
心が動いた結果、なにかが変わって今の自分があるのかもしれない。
私は、記憶に残らなくてもいいから、誰かの心と身体を動かす文章が書きたい。
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読んでいて初期の吉本ばななみたいだ、と思った。
私の一番好きな頃のばなな節を思わせる文間とリズム。
この人の小説が出たら買うかもな。
三年前の私がこう書いていた。
心を動かされたものがたり。
もいちど出逢えて、よかった。
心を動かされた音楽。
理由なんか、ない。バナナうまい。