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1994年《ばらの騎士》譚(Vol.4)---Die Schwäche von allem Zeitlichen限りあるものの弱さ/儚さ
"Is eine wienerische Maskerad これはウィーン風の仮面舞踏会"
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またもや幻の共演
時計の針は、1994年ウィーン国立歌劇場来日公演開幕に辿り着いた。
公演は9月16日のアバド指揮の《フィガロの結婚》で始まり、9月30日に《ボリス・ゴドゥノフ》を終えると、そこから《ばらの騎士》が始まるまでに1週間の時間があった。実はそこから某広告代理店と某証券会社の仕切りによるショルティ&ウィーン・フィルの演奏会が入り、《ばらの騎士》の合間にも行われていた。
これについては以下、「Richard Strauss 2008 日本リヒャルト・シュトラウス協会年誌」から興味深い事実がわかる。
当初はこれらのコンサートもすべてクライバーが指揮する予定だったのです。ですから1994年の10月には日本ではウィーン・フィルは完全にクライバーのオーケストラになるはずでした。ところが当時ウィーン・フィルの事務局長に就任した某ヴィオラ奏者はウィーン・フィルの海外公演をより高い値段にしようとして、単年ではなく複数年契約をしはじめたのです。これにより演奏会とオペラ公演の両方を主催しようとしていたNBSでは資金的に不可能になってしまったのです。この高額な契約を引き受けたのは日本の代表的な広告代理店と某証券会社でした。このような事情のためにクライバーは演奏会の指揮を降りてしまいました。
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金に目が眩んだウィーン・フィルがまたもや「奇跡の組み合わせ」を逃して、幻の公演となったのは大変残念なことである。
クライバー、トウキョウ入り
ウィーン国立歌劇場来日公演が《フィガロの結婚》で始まってまもなく、9月15日にカルロス・クライバーは東京入りした。
「『全く新しいものをつくるのだ』という意気込みで、クライバーは東京でのリハーサルに臨んだという。ウィーンであんなにもリハーサルを繰り返し、3回の本番を経験したあとも、東京でピアノ・プローベを3回、1幕ごとのゲネプロを3日間行った。また、楽譜をさらに読み返し、父エーリッヒ・クライバーの指揮したCDや自分の演奏したLD、あるいはカラヤンのLDなどをじっくりと見て研究していたらしい。」
「公演スタッフ周辺からもれこぼれてくる話では、クライバーは音楽に忠実な人だ。初日の二十日前ほども前に来日し、宿舎では『ばらの騎士』の録音を聴き、楽譜を検討していた。けいこもたっぷりとり、オーケストラをしごいていた。」
「クライバーは毎日スコアを見て勉強していました。90年にメトでやった海賊盤などいろんなCDを聴いて、"一番いいのはカラヤンと父エーリッヒのだ"って。それを聴いた4〜5日は落ち込んで、ダメだもう指揮できないと言うんです。」
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演奏家によっては録音・映像盤に一切頼らないで音楽づくりする人はいるが、このエピソードからも明らかの通り、クライバーは音楽作りの参考として大いに活用している様子がわかる。父エーリッヒへの尋常ならざる敬意はつとに有名だが、カラヤンの《ばらの騎士》録音・映像を評価しているのが興味深い。
そして自分の海賊盤も参考にしているのが微笑ましい。
「渋谷のタワーレコードに朝10時、開店と同時に行って『どうしてこれを私が買わなきゃならないんだろう?』と言いながら自分の「海賊盤」を買って帰ったこともあった。」
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また劇場側がクライバーに大変気を遣ってリハーサル、プローべの時間を多く確保して万全の体制を取っていたことが窺えられる。
そして文字通り「新たなもの」を再構築すべく非常に精緻にリハーサルが進められていたこともわかる。
「わたしは東京の巨大な文化会館でのオーケストラ・プローべのことをけっして忘れられないだろう。クライバーは元帥夫人が第三幕に登場するとき、どんな思いを心に抱いているかをオーケストラに縷縷(るる)説明していた。クライバーは個々の楽器にそれを表現させようとした。しかしいくら説明しても説明しきれず、結局言葉では言い表せないところまでいった。しかし音楽を通して表現される心の動きはどの場面も、これまでだれも表現できなかったレヴェルに達し、どんな観客にも感じ取れる卓越した響きになった」
「クライバーのリハーサルは、すばらしく楽しいものでした。彼はプロダクション全体にも大変興味を示していて、まず言われたことは、歌手たちに大きな声を出さず、なるべく小さな声で歌うように。それでも言葉は完全にきこえるように。だからオーケストラもかなり小さい音で演奏しなくてはいけません。(中略)
シュトラウスの音楽は、言葉と言葉が密接に繋がっていて、意外なところにブレス・マークがついている。そういう楽譜にとても忠実なリハーサルをします」
「練習では大きな音を出すのを好まず、みんなが小さな音で次第に慣らしていく、というのが彼のやり方です」
初日10月7日を迎える!
クライバーのキャンセルを一番心配するファンにとっては初日を迎えるまでは気が気ではなかったのだろう、新聞誌面の「お詫び」を出ないことを祈り続けるという冗談のような話を聞いたことがある。
また初日当日も上野の東京文化会館の掲示にカルロス・クライバーの名前を確認して、公衆電話で仲間に嬉々と報告していたという話も聞いている。
私といえば、平日金曜日で上司には得意先に寄って直帰すると報告して、その得意先にも寄らず上野に向かって、その掲示を確認していた(笑)
初日と3日目に行きました。会場はピリピリしているというより、後にも先にも感じたことのない高揚感があったと記憶しています。
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初日は当時の皇太子(現天皇)ご臨席もあって、会場は確かにただらなぬ緊張感と高揚感が漂っているのは感じていた。いつになく正装した紳士淑女が多かったような気もする。しかしその華やかなロビー・客席の舞台裏ではこんなハプニングもあったようだ。
開演が18時半なので、私たちはクライバーの常宿ホテル・ニュー・オータニを16時半頃出発して、東京文化会館に向かいました。この日は生憎の雨模様で道路は渋滞し、湯島付近で立ち往生(中略)私には彼の焦る訳がわかっていました。彼は必ず開演時間1時間前にオーケストラ・ピットに入って、奏者の譜面台に駄目出しを書いたメモを置く習慣がありました。(中略)東京文化会館に到着したのはなんと開演25分前。結局、彼の真意は楽団員に十分伝わらないまま、初日の公演は始まりました。
この文章、実際の初日開演時間は17時半なので記述の誤りだと思われる。
恐らくホテルを出たのも15時半頃だと推察する。
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ところで、この時はソニー・クラシカルの社長であったギュンター・ブレーストも来日していて、当時の日本のソニークラシカル部長であったS氏と共にクライバーの元に直参して日本公演の録音について相談していたことを聞いている。
広渡氏も以下のように言及している。
「この公演中、ソニークラシカルから、日本公演を音だけでもいいから録らせてほしいとオファーがありました。」
しかし残念ながらクライバーは頑としてこの相談は聞き入れなかったため、会場にマイクが下りることはなかった。
こうして初日の幕は上がった。
この項、了