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大樹からメッセージをいただくには?

これまで、時々、「わたしも樹が何を話すか聴いてみたい」というお声を受け取ってきました。
ふと、先日、森からいただいたメッセージを思い出し、
これも、大樹たちからのサインではないかという思いに至りました。
そこで、
少し長くなりますが、わたしがどのようにメッセージをいただき、ことばを出力しているのか、書き起こしてみようと思います。


1. メッセージは、誰にでも受け取れるのか?(準備)

大樹のメッセージは、基本的に、誰でも受け取れるのだと思います。先日、戸隠で出会った大樹(大杉)が仰っていました、「気づく者は気づく」と。

気づくか気づかないかは、能力の違いではないのだと言います。
大樹の声に多くの人が気づかないのは、意識が別の向きに開いているからのようです。大樹との交信に必要な周波数があるようなのですが、それが合うと(昔ながらのトランジスタラジオのダイヤルを合わせる感覚に近いです)、メッセージをくださる大樹の発信に「気づける」ようです。

わたしの場合は、何となく気になる方向に進んでいくと、大樹と出逢うことが多いです。神社の場合もそうです。例えば、人が多すぎて入るのを躊躇した春日大社も、入らなければならない気がして入ってみると、そこに大きなご神木がいらしたという具合です。

旅のついでに、「せっかく行くのだから」と事前に調べて訪問する場合もありますが、下調べをしておいたから会って話せるとは限りません。現地で出会えないときや、自らと環境が整わず受け取れない場合は、その時ではなかったということになります。わたしの経験では、純度の低い欲を働かせて(=不純な動機で)大樹の言葉を収集しようとしても、うまくいかないという実感があります。

2.大樹のメッセージを受け取る方法(実際にわたしがしていること)

あえて手順のように記述すると以下のようになります。出典(参考資料等)はありませんし、他者から教わったわけでもありません。直感でこのようにしようと決めました。が、手順に縛られてはいません。例えば、①の邪気を祓う手順は、不要なこともあるからです(例えば、山歩きをしている時は、大概不要になっていることが多いです)  。時には、素敵な大樹に出会って、思わずキャッキャと近づいてしまうこともあります。大切なことは、人間が勝手に決めた手順なんかよりも、大樹の生命現象に真摯に頭を垂れる精神だと思います。

①自分にまとわりついた邪気を祓う:大樹に敬意をはらう気持ちで、大樹に向かい、両足をしっかり大地につけて、根を張るイメージで姿勢を正し、はらに力を入れます。姿勢を安定させたら、自らの内にある生命エネルギーが大地からまっすぐ上にのぼり、頭頂部を付けぬけて天につながるイメージで、一本の樹になったように気を整えます。

②神社に参拝するように二礼二拍手してから、大樹のエネルギー領域(気を感じるところ)に入ります。

③軽く一礼してから意識をひらき、大樹から教わりたいことを単純な言葉でまっすぐ問います。

④雑念のない状態で集中します。

⑤意識に直接入ってきたことが大樹のメッセージです。わたしは、メモをとらせていただいているので、この段階か③の段階で、メモをとらせてくださいと一言添えることが多いです(口で言わなくても、心の中で伝えれば十分と思います)

3.大樹のメッセージは「言語」なのか?

大樹のメッセージは、多くの場合、イメージです。
体感覚で伝えてくれることもあります。例えば、めちゃくちゃ陽気な樹で、近づくだけでわけもなく笑いたくなる……そんなことも実際にあります。

意識をひらいて考えずに待っていると、言葉(単語)がぽつりぽつりと降って来ることもあります。また、気配を感じてこちらの視線が動き「(何かを)見せられる」こともあります。例えば、枝先で輝く雫と陽の光に惹きつけられる、葉が落ちる・揺れる様や、特定の枝やフシなどに注目させられるなどがあります。

よく出力する樹もあれば、そうじゃない寡黙な樹もあります。わたしの経験では、人との関わりが少ない大樹ほど、深くシンプルなことばをくださる印象があります(このサイトにアップできていないものもあります)。

4.大樹のメッセージをどのように出力するのか?

イメージ等、さまざまなかたちで受け取ったメッセージを出力する際には、受け取り手の表現力が必要です。
結局は、人間の認知機能を使って、受け取り手が意味を感得し、それを他者が受け取れるものに変換し出力する過程を経て、はじめて、他者に伝えられるカタチに整います。

そのため、同じ大樹との対話であっても、受け取り手が違えば、受け取ったメッセージに対して感じることも、出力する内容も違うと思います。科学的知識のように、いつ誰が受け取っても再現性のある「正しさ」のようなものは求められません。それが、大樹のメッセージが持つやさしさであり、よさでもあるのだとわたしは思います。

わたしのように言語で出力するには、言語的な表現力が必要です。わたしの場合は、イメージを言葉でスケッチするようにして、言語情報に変換しています。言語が直接意識に入って来るときは、その限りではありません。自動筆記するように、考えずにメモして、あとから日本語を整えることもあります。
言語的な表現力はその人の人生を反映するものですから多種多様です。表現者自身に合った言語表現であればよく、他者の真似をする必要はありません。(それぞれによさがあります) 自らの力をまっすぐに使って表現することがもっとも大切なことだと思います。

言語と同様に、絵画、写真、音楽でも、大樹のメッセージは出力可能だと思います。

以前、わたしに、「絵は描けないけど、線なら書ける」とお話された方があるのですが、線や色で出力するのならそれでもいいと思います。音楽未満の「音」でも、リズムでもいいのだと思います。
わたし自身、大樹の前でメロディが口から出て録音したこともあります(未公開)し、自宅に戻ってから絵を描くこともあります。

5.大樹のことばを公表するときの配慮(わたしがしていること)

最近、パワースポットと称される場所(とくに神社)に、大勢の人が詰めかけ、土地の気が涸れかかっていると感じることがあります。
なかには、根がいたみ「足が痛い」と泣いていたり、「わたしの姿をみてどう感じる?」と問いかけてきたりする大樹もあります。

足が痛いと泣いていた大樹については、生えている場所の構造や管理との関連もあると思うので(既に対処されている場合もありますし、樹にも寿命があります)、web上に公開しないことにしています。感情的な反応を煽らないための配慮です。事情を知らず何の責任も負えない者が批判的なエネルギーや、憐みや同情を向けることで、人の手によって生かされている大樹の居心地をさらに悪くしてしまってはいけません。

大樹が苦痛を訴えてきたときは、それでも立派に生きて居らっしゃる大樹と、大樹を生かしているその土地に敬意の気持ちを向け、ありのままのメッセージをくださったことに御礼を伝えています。
いただいたことから学び、その後の生に反映させていくことが、何よりの恩返し(恩送り)だと思っているからです。

また、管理者のいない大樹の居所(自然林等)をweb上に詳しく記述しないのも、人が群がるのを防ぐ配慮として大切なことだと思っています。


* パワースポットが涸れることに関しては、時期をみて、また別の記事を書いてみたいと思います。

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