第3回 アドラーゼミ「課題の分離」
向後千春先生のアドラーゼミに参加しています。印象に残ったこと、気づいたこと考えたことをメモしています。
今回のテーマ:「課題の分離」という言葉はどこから生まれたのか。
「課題の分離」はもともとロジャーズ派であるトマス・ゴードンのペアレント・トレーニング(PET)の中の「課題の所有者」という考えから登場した。日本語訳では「親業」という書籍がある。
子どもの課題には「聞くスキル」が必要なのだが、子どもの話を聞くより指示や命令をする親が多いのではないかと思う。親も忙しく、心の余裕がないこともある。じっくり話を聞くより支持するほうが簡単なのだ。これは教師と学習者にも言えそうだ。また、親の課題には「自分に向き合うスキル」が必要なのだが、親は自分の内面ではなく、相手(子ども)の行動を変えることに意識が向かいがちなのではないかと思う。
参加者から「子どもは親や教師をよく見ている。大人のありようを見ている」という話が出た。親・教師という「役割」ではなく「人間同士の対話」をすること。
多くの親の場合、子どもが失敗から守ろうとして、本人が「自然の結末」を迎えるまで見守ることが難しく、口を出したり管理しようとしてしまう。しかし、子どもを操作しようとすることで関係が悪くなる。親は、子どもが期待通りにならないことに怒りを感じ、感情的に叱ることはよくあるのではないだろうか。
上記のような場合は、「その課題について一緒に考えよう」「悩みを聞こう」という姿勢が大切なのではないかと思う。つまり、親子関係では「家族会議」をする。
まとめ・感想
今回のゼミで話を聞くうち、親子関係についての内容が多かったが、多くの場合、教師と学習者にも言えることではないだろうかと思った。トマス・ゴードンの「教師学」も読んでみようと思う。
また、「嫌われる勇気」を読んで「課題の分離」という言葉を自己流に解釈していたことに気づいた。
私は、その言葉を「自分のペースを乱してくる相手に対して線引きをしたい」というときに用いていた。つまり、私にとって「課題の分離」とは、どちらかと言うと、ある相手との「関係性の終わり」を意味していた。
しかし、今回、他者と協力する前段階として「お互いの課題を整理する」という話を聞いて、「関係性の終わり」ではなく、あたたかい「関係性の始まり」なのだと捉えなおしをすることができた。「共同体感覚」の考え方として納得した。
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