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お粥やの物語 第3章1-2 「いま、僕が見ているものは夢だと言ってください」

忍び足で畳の上を進み、押入れの前に立った。
「怒っていないから、出ておいで」
優しく声をかけても、返事はない。

「ボールを忘れているよ」
そう囁くと、内から引戸が二十センチほど開いた。
僕はその隙間の中へ、そっとボールを転がした。赤い色が見えなくなると、戸は音もなく閉まった。

女の子は押入れの中で籠城するつもりらしい。
独身男の部屋の押入れの中に、小学生の女の子がいる図は、どう考えてもまともではない。第三者の目から見たら、犯罪の臭いがプンプンする。
「幼女監禁」という不吉な言葉を頭に思い浮かべながら、僕は押入れの戸をそっと開けた。

あれ、女の子の姿が見当たらない。赤いボールも消えていた。
腰を曲げながら押入れに入って調べたが、隣の部屋に通じる扉らしき物は発見できなかった。

六畳の真ん中で腰を落とし、戸が開いたままの押入れをしばし眺めた。
背中に滲んだ汗が、背骨を数えるように、ゆっくりと流れ落ちていく。
「幽霊……」口から声が零れ落ちた。

「幽霊とは失礼な」
低い男の声が、押入れの中から聞こえてきた。
ドクンと心臓が弾け、僕は畳の上に尻を擦り付けながら後ずさりした。
立ち上がろうとしても、体から力が抜け落ちて、腰が持ち上がらない。

「助けて……幽霊だ……」
大声を出したつもりだが、掠れた声しか出なかった。
「幽霊じゃないと言っているだろう」
その声が終わると同時に、物凄い勢いで押入れの戸が開いた。

逃げなくては……逃げなくては、殺される。
気が焦るばかりで、体は動かない。

薄暗い押入れの中から、ぬっと二人の老人が現れた。
二人とも七十歳前後だろうか。
前にいる老人の肉付きは悪くない。頭は禿げ上がっていて、剥き出した黒目は獲物を狙う肉食獣のように光っている。
その後に控えている老人は手にパナマ帽子を持っていた。髪の毛は少なくなく、七割がた白くなっている。腕は細く、頬もコケているが、眼差しは温和で、細めた目は笑っているように見えなくもない。

二人は僕の顔をじっと見つめたまま、畳の上で胡坐をかいて座った。

さらに彼らの背後から、着物の女の子とピンク色のレオタード姿の女性が現れると、僕の呼吸は一瞬止まった。
女の人の肩の上でウェーブのかかった茶色い髪が揺れている。彼女の健康的に伸びた手足が眩しかったのは一瞬で、僕の頭の中には盛大な悲鳴が響いた。

女の人は、白髪の老人の隣で体育座りをし、女の子は赤いボールを手にしたまま立っている。
僕の顔に絡みつく四組の瞳は、どれも怪しい光を放っていた。

瞼を硬く閉じ、脳に酸素を送るべく、深呼吸を繰り返した。
これは夢だ。すべてが夢だ。そう考えるのが一番合理的だ。
色々あって、体も心もくたくたに疲れている。
だから、脳が混乱して、謎の四人が押入れから現れたり、馬小屋でシンデレラに会ったりしたのだろう。

夢の中で、夢を見ることがあると言う。目を覚ましたと思ったら、それも夢の中だった、というやつだ。
それと同じことが、いまの僕に起きているのではないか。
それで謎はすべて解ける。

そうとわかれば、夢を満喫すればいい。
とりあえず、二人の老人は脇に置くとして、女の人と楽しいひとときを過ごそうか。
「大変だったわね」と女の人から慰められるのは悪くない。
時間が余ったら、女の子のボール遊びに付き合ってあげてもいいだろう。
それから、それから……。

楽しいことを考えると、心が弾む。
考えてみれば、こんなふうに楽しいことを考えたのは随分と久しぶりだ。毎日、夜遅くまで仕事に追われ、そんなことを考える余裕はなかった。

そっと瞼を開けると、不思議そうな表情で僕を眺める四つの顔があった。
大丈夫、彼らは夢の中の住人だ。

「すみませんが、男性のお二人は、押入れの中に戻っていただけますか」
俺たちのことか、と言うように、二人の老人は仲良く自分の顔を指差した。

僕はニコリと笑って頷き返した。
「どうしてですか?」痩せている老人が首を捻った。
「俺たちを追い払って、彼女たちにいかがわしいことをするつもりだな」
肉付きのよい老人が口の右端を持ち上げ、蔑むように笑った。

「何をバカなことを言っているんですか。そんなことしませんよ」
僕は引きつった声を上げて弁解した。
老人の言葉は半分以上正解だから、強く反論できない。

「いやらしいんだから」女の人が唇をつんと尖らせて、悪戯っぽく笑った。
女の子は無表情のまま首を傾げている。

いや、これは夢だ。弱気になってどする。
「みなさんは僕の夢なんですよ。生かすも、殺すも僕しだいじゃないですか。素直に、僕の言うことをきいたほうが身のためです」

「大きく出たもんだな」
肉付きのよい老人が吐き出すように言った。
「無知も、ここまでくると、たいしたものですね」
痩せた老人が、手にした帽子をパタパタと煽って自分の顔に風を送った。
「おとなしい男だと思っていたけど、結構言うのね」
女の人は白い歯を覗かせて微笑んでいる。
女の子はゴムボールに頬ずりをしていた。

「夢なら良かったのにな」
肉付きのよい老人が頬を持ち上げて邪悪な笑みを浮かべた。
「本当ですね……」痩せた老人がしみじみとした口調で言い、二人の言葉に女の人が口角を上げて笑った。女の子はコクリと頷いている。

「夢じゃないんですか……」
僕の悲鳴のような声に、四人は申し合わせたように顎を引いた。

「嘘だろう……。嘘と言ってください」
僕は視線を宙に漂わせながら、声を絞りし出した。

四人の口許が一斉に緩むと、口の端から鋭い牙が覗いたような気がした。
喉の奥から、「ひぇ~」と細い悲鳴が漏れる。
食われる……。絶対に、こいつらは僕を食べるつもりだ。
百鬼夜行、という言葉が、音速を超えたスピードで、僕の頭の中を走り抜けていく。

草原でライオンに襲われたダチョウが、穴に頭を突っ込んで危機から逃れたと安堵するように、僕は手で頭を覆い、瞼を硬く閉じた。
夢ですよね。夢でなきゃ、困るんだ……。

第3章2-1へ続きます。


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