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お粥やの物語 第1章3-3 「笑うと、幸せになれますか」

『私の靴が見つからないの……』

さっきと同じ女の人の声だ。
声に滲んでいる悲しさは濃くなった気がする。
不意に、誰かに手を握られたような感触に体の芯がブルッと震え、かつて経験したことのない体の変化に、僕は激しく動揺した。

いまのは何だったのだろう。
まさか、悪霊に取り憑かれたのか……。
そんなことがあるものか。
動揺しているだけだ。心の悲鳴が体を震わせたに違いない。
そう考えたほうが、幽霊よりも、よほど科学的で、それに少しカッコいい。

強い風が吹き、汗で濡れた髪が逆立った。
まだ、左手には、誰かに握られたような感触が残っている。

物の怪の類でなければ、祖父が話していた幸せの欠片……だろうか。
そっと掌を握ったが、夜気の気配を含んだ空気を掻くばかりで、何も捉えられない。そんな簡単に、幸せは掴めないか……。

苦笑いが滲んだ頬を、肌寒い風が無遠慮に撫でていく。
この風は何処へ行くのだろう。
街路樹の葉を揺らし、車を追い抜き、建物にぶつかって空へと舞い上がる。
そして雲の間をすり抜けて、海へと消えていく。

風になって、自由気ままに世界を旅できたら、きっと幸せだろう。
僕も、幸せになりたない……。

これから、どうしよう……。
目の前に広がる夜の闇が、いつもより濃く感じるのはどうしてだろう。
見慣れたはずの町並みは、初めて訪れた場所のようで、眺めていると心臓の鼓動が速くなる。

僕はキャリーバッグの上に紙袋を載せ、上着の内ポケットをまさぐり、財布を取り出した。汗と涙で湿った指先で所持金を数える。

千円札が五枚、小銭は百円玉が一つに一円玉が二つだけ。それに駅前にある定食屋の百円の割引券が二枚。キャッシュカードは入っているが、銀行口座には三万円は残っていない。クレジットカードが一枚あるが、その後の支払いを考えると使う気になれない。

今晩は、二十四時間営業のファミレスで粘るか、ネットカフェに泊まるつもりでいたが、全財産が四万円弱では無駄遣いできない。
無職になれば、収入はゼロになる。

クビか……。
課長に退職願を叩きつける姿なら何度も想像した。
残念ながら、そんな勇気があるはずもなく、ズルズルと三年半が流れた。

いかなる理由であれ、会社を辞められて良かったじゃないか。
その気持ちに嘘はない。
でも、明日からの生活を考えると喜んではいられない。
それに、いわれなき理由で解雇を宣告されたことには納得できない。

会社をクビになったと知ったら、田舎の両親は悲しむだろう。
カッコ悪くて友達には話せない。
僕にだってプライドはある。あの会社に就職してから、随分と擦り減ったけれど……。

夜風が、とても冷たく感じる。
いまは七月、少し肌寒いとは言え、冬ではない。公園で一晩寝ても凍死する心配はないだろう。
とは言え、夜がふければ気温はさらに下がる。こんな格好でベンチで寝るのは心許ない。

キャリーバッグの車輪がアスファルトの上を転がる音を聞きながら周辺を徘徊した。
スーパーの裏に転がっていた段ボールを二つほど失敬し、逃げるようにして近くにある公園に向かった。

陽が沈んだ公園に人影はなく、街灯に照らされた木製のベンチが一つひっそりと佇んでいた。
フェンスで囲まれた、一辺が三メートルもない正方形の砂場と、背の低い鉄棒があるだけの小さな公園は、そこだけ時間が止まったように感じられ、見ているだけで悲しくなる。

ベンチに腰を下ろすと、冷たく湿った感触が尻から這い上がってきた。
脚に力を入れても、膝頭の震えは止まらない。

大丈夫、きっと大丈夫だ。
いままでだって、自分なりに頑張って来たつもりだ。
連日の徹夜で疲れが溜まり、背筋に激痛が走った朝も、体に鞭打って起き上がり、満員電車に揺られて出社した。そんな辛い日は両手と両足の指を合わせても数えきれない。

「いつまで新人のつもりだ」と怒鳴られ、「お前の頭の中は空っぽか」と上司から罵声を浴びせられても、ひたすら頭を下げ続けた。
サービス残業が月に百時間超えたって文句を言ったことはない。
それなのに……。

目を瞑り、湿った息を吐き出した。
頭の中から不安を追い出そうと、奥歯を噛み締める。

目の奥に、縁側に腰を下ろす祖父の姿が浮かんだ。膝の上で、野良猫が丸くなっている。猫の背中を優しく撫でながら、顔中に皺を浮かべて微笑む祖父は、見るからに幸せそうだ。

笑うと、幸せになれるんだ……。祖父の口癖だ。

祖父の膝の上で、猫が右の後ろ足で顎先を搔くその光景は、のどかだと言いえなくもないが、猫が「こっちに来い」と手招きしているように見えなくもなくて、その「こっち」が死後の世界となれば、はいそうですか、と頷く気にはなれない。

顔の筋肉に力を入れ、口角を持ち上げてみるが上手く笑えない。
頬から力が抜けると、「フッ」と口から湿った息が溢れた。
急に瞼が重くなり、僕の意識は遠のいていった。


第1章4-1へ続きます。



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