見出し画像

お粥やの物語 第1章5-2 「百円のお賽銭で、思いつく限りの願い事をした僕は罰当たりでしょうか」

確か、鳥居の前で、一礼するんだった。
一年に一度では、記憶は曖昧だ。
神妙に頭を下げると、髪を濡らした雨粒が頬を伝わって流れ落ちた。

二歩進んで、お社に近づく。
不意に、頭の中で警報音が響き、その甲高い音に僕の体は硬くなった。
次にすべきことは、お賽銭……。
財布の中にあるのは、千円札五枚と、百円硬貨一枚に一円玉が二枚。

後ずさりすると、雨音に混じってチリンと鈴の音が聞こえた気がした。
首筋が、ゾクリと冷たくなる。
ここで引き返したら、祟られるかもしれない。
稲荷神社には願いを叶える力がある反面、祟る力もあると言う。
そう教えてくれたのも祖父だ。

鳥居をくぐっておきながら、お参りをせずに背中を向けたら、神様に対して失礼だ。僕が神様だったら気分を害する。「最近の若い奴は」と怒り出すかもしれない。

意を決して一歩前進し、小刻みに震える指を動かして、財布の口を開けた。
千円札は論外だ。問題は二種類の硬貨のうち、どちらを選ぶかにある。
いくらなんでも一円は失礼だろう。それなら百円になる。
十円があったら良かったのに、と嘆いても、近くに両替機があるはずもない。

しかたない……。
僕は清水の舞台から飛び降りるつもりで、百円硬貨を指で摘まんだ。
別れを告げた彼女に追いすがるような心境で、僕は賽銭箱に消えていく百円玉を見送った。さらば、我が友よ。
カタンという湿った音は、深い井戸の底に沈むようで、どこまでも物悲しい。

僕はそっと息を吸い込んでから、恭しく二礼し、二拍した。
手を合わせたまま硬く瞼を閉じ、一心不乱に願い事を唱える。
どうか、警察に捕まりませんように。
冤罪が晴れますように。

しまった、名前と住所を告げるのを忘れていた。
神様は忙しい。願いを耳にしても、願い主を調べている暇はない。
だから、「名前と住所をきちんと伝え、できるだけ具体的にお願いをすべきだ」と教えてくれたのはしっかり者の祖母だ。

僕は名前と住所を口にしてから、もう一度願いを繰り返した。
僕は何も悪いことはしていません。濡れ衣なんです。だから逮捕は阻止してください。
株式会社アモスプランはブラックな面もありますが、よい面も少しはありました。できれば誤解が解けて、働き続けたいです。
できるだけ、やりがいのある仕事がいいのですが。

百円分を取り返さなくてはと、僕は必死に願いを続けた。
借金を完済したいです。
可愛くて、優しい彼女が欲しいです。
成功したいです。
両親に楽な暮らしをさせてあげたいです。
それから、それから……。

お腹の奥がグウと鳴った。
僕は願いを目先のものへと切り替えた。
美味しいものが食べたいです。できるなら、温かいもの。
今晩、寝る場所が欲しいです。雨に濡れず、夜風があたらないところをお願いします。
お酒も飲みたいな。できれば、白ワインなどを。

『あなた、いい加減にしなさいよ』
生徒の悪戯を見つけた女性教師が怒鳴るような声に、僕は瞼をパチリと開けた。
少女の声とは明らかに違う、もっと年上の女性の艶のある声だ。

首を動かして、きょろきょろと周囲を見渡す。辺りに人影はない。
そもそも僕は願い事を声にしていない……。

そうか、自分の心の声だったのか。
僕にも人並みに欲はある。だが貪欲なほうではなく、何事にも控え目なほうだと自負している。
僕の良心と自制心が、自分自身をたしなめたのだろう。

お社に向かって深々と頭を下げてから後ずさりし、鳥居を出たところで、もう一度礼をした。
いつの間にか、雨は止んでいた。

夜の闇の中に、橙色の灯がぼんやりと浮かんでいた。
鳥居の隣に、小さな店がある。

横と言っても、通りに面した場所ではなく、角を曲がって路地に入ったところだ。店は駄菓子屋よりも小さくて、看板らしきものは見当たらず、暖簾が出ているだけだ。
紺色の暖簾には、白字で「お粥や」と書いてあった。

第2章1-1へ続きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?