見出し画像

お粥やの物語 第3章4-2「苦手なニンジンを生のまま齧ると、強烈な青味と一緒に涙の味がしました」

腕時計を見ると、時刻は午前七時二十分になるところだった。
十分以内に部屋を出ないと、会社に遅刻してしまう。
いつもの習慣で、そう考えてみたものの、解雇された男が出社時刻を守る必要はないはずだ。
それでも、いつも通りに行動しようとするのはサラリーマンの悲しい性だ。

ネガティブに傾いた僕の頭の中で、「幸せになると誓いない」という女の子の声が響いた。
僕には神様が付いているんだ。百人力じゃないか。
バシッと顔を両手で叩いた。
気合を入れたのに、お腹がグウと情けない音を出して鳴った。

昨日は昼食抜きで、夕飯は一杯のお粥と梅干し二つだけ。
二十代の男の食事にしては少な過ぎる。腹が減るのも当然だろう。
普段なら、食パンの買い置きをしてあるが、昨日はそんな時間がなかった。

そう言えば、あれがあった……。
僕はキャリーバッグの横で転がっていた紙袋に手を伸ばした。
中を覗くと、萎びた長ネギと、黄色みを帯びたニンジン、芽が伸びたジャガイモが、悲しそうに転がっていた。

ジャガイモの芽には毒があると聞いた覚えがある。
長ネギとニンジンは苦手だが、どちらかを選べと言われたら、渋々ながらもニンジンを選ぶ。
そんな苦手な野菜が冷蔵庫の中に隠れていた理由は、近くのスーパーの店頭で野菜の盛り合わせの特売をしていたからだ。
半額の値札を目にした僕は、袋の中身をさして調べもせずに手を伸ばした。
半額シールに飛び付くのは大学生時代に身に着いた習性だ。

ニンジンが苦手だと言っても、食べられないわけではない。
それが証拠に、店でカレーを食べたときは、噛まずに呑み込んで、一つ残らず平らげる。
残したら、もったいなお化けに祟られる。
その祖父の言葉を忘れたことはない。

水道水でニンジンをじゃぶじゃぶと洗い、伸びた数本の細い根を引き抜いた。
リュックの中から包丁を探し出すのも面倒で、そのまま齧りついた。
口の中に強烈な青味が広がっていく。
喉に絡みつく苦味は、やっぱり、苦手だ。
ウエッと吐きそうになるのを堪え、数回の咀嚼で済ませ、無理矢理呑み込んだ。これでは、ニンジン嫌いが、ますます酷くなる。

涙が滲むのを堪えて、もう一口齧りつこうとしたが、胃から酸っぱいものがこみ上げてきて、体が受け付けない。僕は勇気ある撤退をした。
今晩もお世話になる可能性を考えて、くっきりと歯形が残っているニンジンを紙袋の中にそっと戻した。

小さな洗面台で、うがいを七回繰り返したところで、ようやく口の中からニンジンの味がなくなった。

皺だらけの灰色のスーツは見るからに、だらしなくてみすぼらしい。
もう一着の紺のスーツはリュックの中にあるはずだが、皺くちゃなのは同じだろう。社宅に戻ったときは、すでにゴミ袋の下に沈んでいた。

腕時計で時刻を確認すると、家を出るタイムリミットの午前七時三十五分ちょうどだった。
僕は、「負けるもんか」と自分を叱咤した。
その声は部屋の空気に溶けるようにして消えていく。
虚しいな……。

僕は、何に対して、負けたくないのだろう。
会社か、それとも僕を解雇した上司たちか。
違う。きっと、気弱な僕自身に負けたくないのだ。

僕の性格は強いとは言えない。それは自分でもわかっている。
言い負かされることはあっても、他人を言い負かしたことは皆無に等しい。。そうしたいとも思わない。
やはり、「負けるもんか」は僕には似合わない言葉だ。

大きく吸ってから声を張り上げた。
「絶対に幸せになってやる」
その声は、閑散とした室内に心地よく残響した。
そのほうが、僕には合っている。

部屋を出ると、ドアノブに鍵を掛けた。無駄な気もするが念のためである。
足元に気を付けながら階段を下り、一階に通じる戸を開けた。

お店の中に、粥やの店主の姿は見当たらなかった。
もし、店主に会ったとしても、四人のことを訊くわけにはいかない。
口外しないと、女の子と約束したのだ。
店の玄関から外へ出ると、埃っぽい風が皺だらけのスーツを乱暴に撫でた。
その中にシンデレラの悲鳴が混じっている気がした。

シンデレラを助けたい。その気持ちはいまも変わらない。
それに僕だって、できることなら幸せになりたい。
でも、これからのことを考えると気が重くなる。
僕は本当に幸せになれるのだろうか……。

第3章5-1へ続きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?