お粥やの物語 第2章4-1 「貸し部屋は、和室六畳で小さな洗面台付き、風呂なし、共同トイレで月二万円なり」
店主に続いて、僕は店の奥へ進んだ。
厨房を横目に歩を進めると、古い引戸の前に辿り着いた。
力を入れたら壊れてしまいそうな貧相な戸で、その向こうにあるのは、どう見ても物置としか思えない。
店主は取っ手に指を掛けるとピタリと動きを止め、おもむろに振り返ると、僕の顔をまじまじと見た。
店主の表情が、大人が子供を心配しているように見えたのは、黒い瞳が小刻みに揺れているからだろう。
「本当に、いいんですね」
念を押す店主の瞳の揺れが止まっていた。
僕は反射的に「お願いします」と頭を下げた。
店主が引戸を開け、照明の電源を入れると、目の前に狭い階段が現れた。
二階へと続く階段は、時が止まったような、何とも言えない不思議な雰囲気を醸し出している。
一度上ったら、二度と戻って来られないような、それでいて訪れた人を引き込むような、懐かしさの中にも怪しい空気が漂っていた。
「部屋に出入りするには、この階段を使うしかありません」
店主は顎を上げ、階段を眺めながら弁解するように補足した。
そうか、店主が気にしていたのは、不便な出入口だったのか。
二階の部屋に行くには、店の中を通らなければならない。
部屋に彼女が遊びに来る状況を考えると確かに面倒だ。「私、帰るから」と言い放つかもしれない。それでふられたら目も当てられない。
しかし、である。いまの僕に彼女はいない。これからも、いないかもしれないが……。
店主の真っ直ぐに伸びた背中を見上げながら、僕は狭い階段を上った。
見掛けによらず、しっかりした作りなのか、階段は足を載せても軋む音一つはしない。
幅は六十センチくらい。すれ違うときにはお互い横向きになる必要がある。大きな荷物を運び込むのは無理だろう。
階段を上り切ったところに、一畳ほどの三和土があり、その端に、空っぽの小さな靴棚があった。
そこで靴を脱ぎ、板張りの廊下に足を載せると、ひんやりとした感触が足の裏から這い上がってきた。
奥へと伸びている廊下の右手には窓がある。左側には、手前に共同トイレ、その向こうには三つの扉、炊事場を挟んで、さらに三つの扉が続いていた。
トイレは和式で、炊事場には小さな流しとカセットコンロが一つだけ。どれも古いが、綺麗に掃除されている。ちなみに、コンロのカセットは、使う人が持参するとのことだ。
店主が、トイレの隣にある部屋の扉を開けると、古めかしい畳の匂いが素肌をふわりと包んだ。
店主は慣れた手つきで薄闇の中に足を踏み入れ、壁にあった照明の電源を入れた。
部屋の入口には半畳ほどの板間があり、その隅に直径三十センチに満たない半円状の、可愛らしい洗面台が備え付けてあった。その上方にある鏡は細長くて、どう頑張っても顔の半分しか写さない。
六畳の和室は、物が置いてないせいか、思った以上に広く感じる。
壁も天井もそれなりに時代を感じさせるが、掃除が行き届いているのは店内と同じで、気持ちがいい。
店主の許可を得てから、僕は押し入れの中を覗き込み、ベージュ色のカーテンを引き、窓ガラスを開けた。
薄暗い道路に、人影は見当たらない。
頬を撫でる夜風には雨の匂いが混じっていた。
夜空に向かって伸びた樹木の枝が風にゆらりと揺れている。
遠くから、車のクラクションの音が聞こえてきた。
窓ガラスを閉めてから、もう一度部屋の中を見渡した。
悪くないどころではない。月二万円の家賃を考えたら「素晴らしい」の一言に尽きる。まさに砂漠にオアシス。それを言うなら、都会にお粥やか。
「隣の部屋をご覧になりますか」
僕の返事を待たず、店主はくるりと背中を向けると部屋から出て行った。
遅れまいと廊下に立ったが、すでに店主の姿は見当たらない。
隣の部屋から足音が聞こえてきた。
右足を持ち上げたところで、僕の動きはピタリと止まった。
誰もいない廊下の突き当りに、赤いゴムボールが転がっていた。ボールは直径二十センチくらいで、空気が抜けているせいで、僅かに潰れている。
さっき廊下を見たときは気づかなかった。
子供が住んでいるのだろうか……。
「どうしました?」
店主の声に、僕は我に返り、急いで隣室に入った。
室内の様子は、いま出て来た部屋とそっくりだ。
「他の四部屋も同じ間取りなんですか」
僕の何気ない一言に、店主の口調が重くなった。
「ええ……。いまは入居中ですから、お見せすることはできませんが」
当然の話である。それなのに店主の口調が変わったのはどうしてだろう。
まあ、いいか。どんな人が住んでいるにせよ、取って食われることはないだろう。うるさい隣人は面倒だが、いまの僕に他の選択肢はない。
「二つの部屋の、どちらでもかまいませんが」
さきほどの重い口調が嘘のように、店主の声は軽くなっている。
僕としては、どっちの部屋でも異存はない。
あえて選ぶなら、トイレに近い、最初の部屋だろうか。
「今晩から、入居することは可能でしょうか」
僕は胸の奥に小さな痛みを感じながら、社宅を追い出された経緯を嘘に包み込み、海外赴任から戻った家族のために急遽引越しを余儀なくされた、と説明した。
「会社の手違いなんです」とか「僕は独身で身軽だから」などと、口から取り留めもなく、言い訳が溢れ出したが、店主は疑う様子もなく、「それは大変でしたね」と同情してくれた。
胸の痛みは大きくなるばかりだった。
第2章4-2へ続きます。
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