お粥やの物語 第1章5-1 「信じるモノが見つからない僕は、強くなれませんか」
『私の靴を探してよ……』
雨の間をすり抜けるようにして聞こえてきた少女の声に、僕の心臓は波打った。最初に耳にしたときより、少女の声が横柄に聞こえたのは気のせいだろうか。
強張った首を強引に動かしたが、やはりと言うように、辺りに人影はない。
空耳という一言で片づけるには、少女の声はあまりにもリアルだ。少し前に目にした馬小屋の映像も網膜に残っている。
霊に取り憑かれ、呪われたのかもしれない……。
そう考えると、凍ったアイスを背中に突っ込まれたように、急速に背筋が冷たくなっていく。
車に撥ねられて、靴が脱げて亡くなった少女の霊だろうか。
さ迷っている間に服がボロボロになり、肌が薄汚れたのではないか。
超能力を信じて、スプーンを曲げに熱中したのは小学四年生のとき、自分には特別な能力があると信じていたのは中学二年生までだ。
そんな僕ではあるが、幽霊は信じている。超常現象でも、怖いものとなると信じてしまう傾向がある。「あって欲しくない」という思いの反動かもしれない。
お化け屋敷には、小学二年生のときに祖父と一緒に入ったのが最後で、それ以来、頑なに敬遠している。彼女に「意気地なし」と笑われても、僕の決意は固かった。僕は意志が強い男なのだ。
冷たい汗が背骨を数えるようにゆっくりと流れ落ちて行く。
何者かに冷えた手で背中を撫でられたような感触に、股間がキュッと縮んだ。
命を落とすという最悪の場合が脳裏を過り、僕は暗闇に向かって、喉を震わせて声を張り上げた。
僕の靴でよかったら差し上げます。
泥で汚れていて、踵はすり減っていますが、まだ履けます。遠慮なく受け取ってください。
だから、呪うのだけは勘弁してもらえませんか。
雨と風の音が鼓膜を揺らすだけで、返事はない……。
追い打ちをかけるように「チン」と鈴を鳴らしたような細い高音が鋭い針となって、僕の心臓をブスリと貫いた。
やっぱり、呪われたんだ……。
いやいや、待てよと、僕は大きく息を吸って思い留まる。
疲れが溜まると、突発性の難聴になると聞いたことがある。
それじゃないか……。
でも、雨音はクリアなままだ。
冷たい雨は白く光り、雪のように降ってくる。
視界の隅に、鳥居らしき赤い柱が飛び込んできた。
いや、らしきではなく、街灯に照らされて赤黒く光る姿は紛れもなく鳥居だ。
電灯の明かりに吸い寄せられる蛾になった気分で、僕は鳥居に近づいた。
小さな稲荷神社だった。
樹木の葉が雨を遮っているせいで、奥に鎮座しているお社も、手前にある小さな賽銭箱も、それに左側に控えている狐の置物もほとんど雨に濡れていない。それに対して、右側にいる狐はずぶ濡れだ。細い目から涙のように、雨粒が滴り落ちている。
その顔が、僕をこの場に導いたスジ太の顔と重なった。
まさか、この狐の置物が僕をこの場に導いたのか……。
そんなわけないか。
口許に苦笑いが滲むのを感じながら、僕は稲荷神社を眺めた。
都内を歩いていると「どうして、こんなところに鳥居があるんだ」と驚くときがある。
狭い道にあるのは序の口で、どう見ても「個人の住居でしょ」というような家の一角にあったり、ビルの屋上にあったりする。
そういう意味では、道路に面した稲荷神社は驚くに値しないのだが、僕の驚愕は別のところにあった。
息を止めながら道路の向こうにある古びた駄菓子屋の看板に目を凝らしてから、もう一度、鳥居を眺めた。
毎朝、通勤時に、前の道を通っているはずなのに、鳥居にはまったく気づかなかった。小さいと言っても、鳥居は僕の背丈よりも高く、横幅は僕が四人並んだくらいはある。
いくら眠気まなこで会社に急ぐ僕でも気づかないはずはない……。
とは言え、稲荷神社が存在するのは紛れもない事実で、樹木に隠れて気づかなかった、としか説明できない。
すっきりしない気持ちのまま、僕はお社に向き直った。
毎年、家族と一緒に、実家の近くにある神社に初詣に出かける。中学に入学するまでは、祖父母と両親、それに僕を含めた五人で、祖父母が他界してからは三人でお参りを続けている。
頭の奥に、優しく微笑む祖父の顔が浮かんだ。
祖父は信心深い人で、朝朝、必ず、お仏壇に向かって手を合わせ、何やらブツブツと呟いていた。
「神様にお願いをしたの?」と問いかける僕の頭を優しく撫でながら、祖父は「仏様だよ」と訂正し、言葉を続けた。
「神様でも仏様でも、科学でも、何だってかまわない。信じられるものがあれば、人は強くなれる。おじいちゃんが強い理由だよ」
胸を張った祖父を見ながら、幼かった僕は余計な一言を口にした。
「でも、おじいちゃんは、おばあちゃんに怒られてばかりだよね」
祖父は口許に浮かんでいた皺を深くして、咳込みながら弁明した。
「負けたからと言って弱いわけじゃない。負けるが勝ちという言葉もあるからな。ゴホゴホ……」
祖父はウィンクしたつもりだったのだろう。だが、右目がピクピクと痙攣している様子は、泣いているようにしか見えなかった。
僕は、何を信じて生きて来たか……。
神様や仏様ではないのは明らかだ。
大学受験では第一から第三志望まで見事に落ちたし、クジ運だって友達の誰よりも悪かった。そんな身としては、自分の運を信じられるはずもない。
信じ続けたものは何もない……。
それでは、祖父に言わせたら、僕は弱い人間になってしまう。
祖父のもう一つの言葉である「負けるが勝ち」も、僕の場合は「負けるは大負け」でしかない。つまり最弱な男という結論に辿り着く。
首を振って否定したいところだが、いまの現状を見れば、それがあながち間違いとは言えない。
これからでも、間に合うだろうか……。
いや、間に合ってもらわなければ困る。とても困る。
気を取り直して、僕は稲荷神社に向き直った。
第1章5-2へ続きます。
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