お粥やの物語 第4章2-1 「こんな僕でも、お粥やの店主は温かく迎えてくれます」
どこを、どうやって帰って来たかは覚えていない。
気が付くと、お粥やの店の前に立っていた。夕陽に照らされた紺色の暖簾が風に揺れている。腕時計の針は午後五時半を回ったところだ。
会社にいたのは二時間くらい。それなら、会社の建物を後にしたのは十時過ぎになる。それからの約七時間、僕は何をしていたのだろう……。
電車やタクシーを使わず、歩いたのは間違いない。
たくさんの人とすれ違ったようにも思う。その中には、仲の良かった大学時代の友人もいた……。
いや、そんなはずはない。彼は、就職してすぐに交通事故で亡くなっている。でも、その男は僕の顔を見てニコリと笑ったのだ。
思い出そうとすると、頭の芯がズキンと痛んだ。
記憶はどこまでも曖昧で、形を成さない。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。なぜか、心臓の鼓動が速くなる。
ぽっかりと空いた時間と消えた記憶、そして亡くなった友人の笑顔……。
まさか、僕は命を落としたのか。
会社を出てその足で近くのビルの屋上に向かい、そこから飛び降りたとか。
そんなはずはない。僕は高いところが苦手だ。
それなら、車道に飛び出してトラックに轢かれたとか。
人気のないところで首を吊ったとは考えられないか。
僕はブルブルと首を振って、その考えを追い出した。
僕は自ら命を絶つことはしない。死にたいと思ったことは何度もある。いまだって、油断するとその考えが頭を擡げてくる。
でも、死ぬわけにいかないと思っている。死にたくないからではない。死んではダメだと心が叫んでいるからだ。
祖父が話していたビッグウェーブなど訪れない気がする。
生きていても良いことなど何もないかもしれない。
将来が今の延長線上にあるのなら、酷い出来事が続くはずだ。
それでも、僕は生きて行かなければいけない。
なぜ? と問われても上手く答えられないけれど……。
お粥やの暖簾をくぐり、戸を開けた。
最初に戸を開けたときは音がしなかったのに、いまはガタついた音がする。
「お帰りなさい」
カウンターの向こうで、お粥やの店主が微笑んでいる。
「いらっしやい」ではなく、「お帰りなさい」と言われたのが妙に嬉しい。
「ただいま」と言いかけて、照れ臭くなった僕は「どうも」と呟き、小さく頭を下げた。
この性格、直さないといけない、そう思っていると、店主が柔らかい笑みのまま、天井を指差した。二階で誰かが待っている、と言いたいらしい。
僕を待つ人物と言えば……。
女の人の指示に従って会社に行ったのだ。それなら約束を守ったことになるのではないか。
そう自分を納得させても、気持ちは重い。
朝は、あんなにやる気があったのに……。
人の心は弱くて移ろいやすい。水か低いところに向かって流れるように、心は暗闇へと落ちて行く。それは僕だけかもしれないけれど。
店の奥に視線を流すと、カウンターの一番奥に座っている男と目が合った。
その席に座るということは常連客に違いない。
客がいたのには気付かなかった。それだけ、憔悴していたということなのだろう。
男は僕に向かって小さく頭を下げた。目許は優しく笑っている。
反射的に頭を下げた。微笑もうとしたが、上手く笑顔を作れない。
男の前には、白いお粥が入った丼ぶりがぽつんと置いてあった。
梅も、卵の黄色も見当たらないから、店主のおすすめだろう。
男は丼ぶりに顔を戻すし、レンゲに手を伸ばすことなく、じっとお粥を見つめている。
店主は「熱いうちに召し上がってください」とも言わず、そこに男がいないかのように、黙々と仕事をしている。
色んなお客さんがいるんだな……。
そう思いながら、男の後ろを通り抜けて、二階に通じる扉を開けた。
階段に足を載せるたび、子ネズミを踏み潰したような音が響く。
その声がシンデレラの悲鳴と重なった。
そうだった。僕にはシンデレラを救う任務があった。
僕が幸せになれなくても……シンデレラだけでも幸せにしてあげたい。
廊下には誰の姿もなかった。
その代りと言うように、僕の部屋の扉が十センチほど開いている。
朝、確かに鍵を掛けたはずなのに……。
誰が開けたかは検討が付く。でも、腹は立たなかった。
むしろ、ほっとしたくらいだ。
僕を待っていてくれたのは、お粥やの店主だけではない。
そう考えると胸の奥がじんと熱くなった。
「お帰りなさい」と言われたら、今度こそ「ただいま」と元気よく返そう。
扉を全開にすると、笑みを浮かべて立つ、女性の姿があった。レオタード姿でなく、薄いピンク色のワンピースを着ている。その淡い色は優し気な笑顔によく似合っていた。
左隣には着物姿の女の子が、いつもの無表情で立っていた。それでも、どこか柔らかい表情だと感じたのは気のせいだろうか。
彼女たちの後には、二人の老人が畳の上で胡坐をかいている。二人とも、顔の皺を増やして笑っていた。
こんなに温かく迎えられるとは考えてもいなかった。
さすが、神様。
会社での僕の様子を知り、慰めてくれるつもりらしい。
何だかんだと言っても、神様は慈悲に溢れている。
僕は涙を堪えて、「ただいま帰りました」と掠れた声を発し、深々と頭を下げた。顔を上げと同時に、女の人に頭をぽかりと叩かれた。
何が起きたかわからない僕に向かって、女人は言い放った。
「あなた、地獄落ちよ」
第4章2-2へ続きます。
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