お粥やの物語 第2章3-1 「嘘を吐いた僕に、罰は当たりますか」
空腹が満たされると腹の中がポカポカと温かくなった。
これは、幸せの欠片……。
熱い息を吐くと、それと一緒に幸せが零れ落ちるように、会社での一件が頭の中を大股で過り、体の芯が急速に冷たくなった。
手に触れたと思った幸せの欠片は、砂糖菓子が溶けるように小さくなっていく。会社の解雇は、小さな幸せを吹き飛ばすくらいのインパクトがある。
「どうされました?」
脇で控えていた店主が心配そうな顔をして僕の顔を覗き込んだ。
「美味しすぎて、感動しちゃって……」
僕は心の内を悟られないように、無理に口角を持ち上げて笑って見せた。
「それならいいんですが……」
探るような店主の視線に耐えられず、僕は強引に話題を切り替えた。
「店の隣にある稲荷神社は、いつからあるんですか」
明治時代からあること以外、店主も詳しいことは知らないと言う。
「毎朝、掃除をし、手を合わせていますが、商売繁盛とは無縁のようです。神様にも色々な方がいらっしゃいますから」
微笑む店主の瞳はどこか遠いところを見ているようで、悲しそうにも、嬉しそうにも見える。
何気なく、鈴の音と女の人の声が聞こえたような気がしたと伝えると、店主の細めた目が大きくなった。
「その女の人は何と言っていましたか」
店主の真剣な表情に、反射的に上体を引くと、椅子の軋む音が二人しかいない店内に静かに響いた。
「あなた、いい加減にしなさいよ」とは答えられるはずもなく、百円玉一つでたくさんの願いをしたなんて、恥ずかしくて口にできない。
せこくて、いじきたない、貪欲な人間だと店主に思われたらおしまいだ。
いまは、店主に誠実な人間だと信じてもらうことに専念すべきだろう。
僕は右目の瞼がヒクヒクするのを感じながら、「雨の音がうるさくて、よく聞き取れなかったんです」と誤魔化した。
嘘を吐くと、右の瞼が小刻みに痙攣すると教えてくれたのは、大学時代に三ヵ月間付き合った彼女だ。
店主は「そうですか」と頷いただけで、それ以上追及しなかった。
胸の内で、店主に向かって頭を下げたつもりだったが、気が付けば実際に頭を下げていた。店主に悟られる前に、僕はそっと首を持ち上げた。
視界に「空き部屋あります」という張り紙が入ると、にんまりと頬が緩んだ。見れば、見るほどに、魅力的な言葉である。
店主は大きなリュックとキャリーバッグを流し見てから僕に顔を戻し、曖昧に微笑んでいる。
僕の心中を察したらしい。
僕が言い淀んでいると、店主は「空き部屋は、この二階です」と、秘密を打ち明けるように声を潜め、天井を指差した。
僕は店主の指の動きに釣られるようにして天井を仰ぎ見た。
二階にある部屋が見えるはずはないのだが、目の奥にくっきりと畳敷きの和室が浮かんだ。
「六部屋ありますが、いま入居している方は四人です」
店主の住まいは一階の店の奥で、二階はすべて貸し部屋になっていると言う。五年前までは、いま居る四人の他に二人の学生が住んでいたそうだが、食事の世話など何かと面倒を見ていた細君が他界してからは、二部屋はずっと空き部屋のままだ。
トイレと炊事場は共同で、風呂はなし。間取りはすべて同じで、六畳に押し入れ、それに申し訳程度の洗面台が付いている。
恐る恐る、家賃を尋ねた僕の視線をしっかりと受け留めて、店主は「月二万円で、共益費は頂いておりません。敷金礼金も必要ありません」と答えた。
こんな幸運に巡り会えるとは思ってもいなかった。
消えかけた幸せの欠片が、「お待たせしました」というように大きくなっていく。世の中、捨てたものではない。感謝、感謝である。
風呂なし、共同トイレなどの条件を考慮しても、都内のこの立地で、その値段となれば文句の言いようがない。
第2章3-2へ続きます。
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