お粥やの物語 第1章3-2 「祖父の想い出は消えることなく」

僕は梅雨明けの夜空を仰ぎ見て、自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
「逆境のときこそ前向きになるんだ。そうすれば、幸せの欠片が見つかる。それを集めると、大きな幸せが訪れるから……」
大好きだった祖父の口癖だ。

事あるごとに祖母に叱られ、大きな背中をこれでもかと丸めてばかりの祖父だったが、その言葉を口にするときだけは背筋がピンと伸びていた。

人生、山あり谷あり、と言うじゃないか。
いまは深い谷底にいるけれど、歩き続ければ必ず上り坂が見えてくる。
悪いことが続けば、その後でビッグウェーブが待っている。
それも、祖父の言葉だ。

遠くから聞こえてきた車のクラクションの音に、心臓がドクンと跳ねた。
汗で濡れた背筋がゾワリと冷たくなる。

本当にそうだろうか……。

事業に失敗し、わずかな蓄えを、信頼していた知人に騙し盗られた祖父は、夫としてだけでなく、親としての威厳も失った。
縁側に腰を下ろし、餌をねだりに毎晩現われる野良猫の頭を撫でながら、夕陽に目を細める祖父の背中を思い出すたび切なくなる。

僕と同じく、泳ぎが苦手な祖父が華麗にサーフボードに乗る姿など想像できるはずもなく、大波に飲み込まれて、がむしゃらに腕を振り回して助けを求める様子しか浮かんでこない。

きっと祖父の前にビッグウェーブは現れなかったのだろう。
出現したとしても、指を咥えて眺めていただけに違いない。

このまま、ずっと下り坂だったら……。
「僕なんか……」という黒い気持ちが胸の中に充満していく。

いかん、いかん。
不安を追い出すように、僕は激しく首を振った。
僕は心配性の部類に属する。油断すると、すぐに心はネガティブに傾く。

背筋を伸ばして、「ポジティブになるんだ」と自分に言い聞かせる。
重い荷物はダンベルと思えばいい。汗を流してトレーニングをしているのだ。
社宅を追い出されたのは、よりよい住居へ移るため、引いては幸せになるため試練。紙袋の中の野菜だって腐らずに済んでよかったじゃないか。食べれば腹の足しになる。
人生のすべてに意味がある、そう教えてくれたのも祖父だ。
だけど……。

その言葉を否定するわけではない。祖父の言葉を否定したくはない。
それなのに、気持ちは晴れるどころか沈んでいく。
七月という季節が嘘のように、胸の中で寒々とした木枯らしが吹き荒れている。

クシュンと鼻水混じりのクシャミが一つ、盛大に口から飛び出した。
鼻水をすすると、初夏の湿った匂いがした。


第1章3-3へ続きます



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