お粥やの物語 第3章3-1「あなたは耐えられるかしら? と美女に言われても、頷くことはできません」
他人の心の中が読めるのは間違いない。
そう確信した僕の前で、女の人が、エアロビのインストラクターのように前屈を始めた。背中を向け、両足を広げ、畳に両手を付けて、前かがみになるものだから、形のいいお尻は僕の目の前で動いている。
まずい、まずいぞ……。
視線を畳の上に落としたが、丸いお尻の残像は簡単には消えない。
こんなときに、いや、こんなときだからこそ、僕の頭の中は桃色に染まっていく。
いやらしいことを考えてはいけない。頭の中は四人に筒抜けなのだ。
焦れば、焦るほど、いかがわしいことが頭に浮かんでくる。
そうだ、深呼吸をしよう。僕の習慣の一つだ。
精神統一をしたいとき、祖父は目を瞑って深呼吸をした。
「深い呼吸をすると幸せになれるぞ」と誘われて、祖父の隣に座って真似をしたのが始まりだ。
瞼を閉じ、大きく吸ってゆっくり吐き出す。全身に新鮮な酸素が運ばれていくのをイメージするのが大切だ。
脳裏に焼き付いていた、女の人の形のいいお尻が果物の桃に変わり、桃の樹木が現れた。
さらに、もう一度、大きく息を吸って細く長く吐くと、青空の下で、山が連なる景色が頭の中に広がった。さすがは、祖父である。もう大丈夫だ。
自信を持って瞼を開けた僕の目の前に、女の人のお尻が迫ってくる。
青空は、ピンク色の絵の具を流し込んだように、凶暴な桃色に染まり、山々は女の人のお尻へと変貌していく。
そう言えば、祖父の精神統一は、祖母の気配を感じると、たちどころに崩れてしまったのだ。
「いい加減にしないか。こんな愚かな男でも、見ていると気の毒になる」
禿げた老人の声に、女性は「だって、面白いんだもの」と邪悪な笑みを浮かべながら畳に座り直した。
からかわれたらしい……。
恨めし気に睨むと、女の人は悪びれた様子もなく、口の端を持ち上げてニコリと笑った。
「ごめんなさい。あなたの心をほぐしてあげようと思ったの」
嘘だ。絶対に嘘だ。
そう胸の中で叫んだところで、僕は慌てて自分に言い聞かせる。
ここで反抗したら、また、何をされるかわからない。
「ありがとうございます」
僕は深々と頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げた。
いかがわしい妄想を頭の中から追い払うように、僕は勢い込んで言葉を続けた。
「話を戻しますが、みなさんはお粥やの間借人なんですね。僕は口が堅い。安心して本当のことを教えてください。みなさんの能力については絶対に口外しませんから」
どうする、というように、四人は顔を見合わせた。
「あなたが言いなさいよ」と女の人が白髪の老人の顔を睨んだ。
禿げた老人は、それが当然だというように大きく頷いている。
渋々といった様子で、白髪の老人は僕の顔を見据えた。
「実を言うと、私たちは人間ではりません」
「へぇ」僕の口からタイヤの空気が抜けるような音が零れた。
冗談は止めてくださいよ、と言いかけた僕の口は、禿げた老人の真剣な表情で閉じてしまった。
一度は抑え込んだ恐怖が、むっくりと頭を擡げる。
超能力者ということでよかったのに、やっぱり、その手の類ですか……。
冷えた石のように固まった僕に視線を絡めたまま、白髪の老人は静かな口調で続けた。
「私たちは、神です」
「えぇ~」僕の声は疑いの色で真っ黒に染まっている。
「神って、あの神様のことですか」
頬が緩む僕を睨みながら、四人は力強く顎を引いた。
「いくらなんでも、それはないでしょ。まだ、幽霊と言われたほうが信じられますよ」
引きつったような笑い声は、僕の口から出たものとは思えない。
突拍子のない話の展開に思考が付いていけない。
笑っちゃいけない、と思っても笑いを止められない。
「あなた、笑い過ぎよ」女の人が頬を膨らませて、目尻を吊り上げた。
「罰が当たりますよ」白髪頭の老人の細い目は冷たく光り、禿げ上がった老人は舌打ちが聞こえてきそうな顔をしている。
女の子は、僕の真似するように口を開けて笑っていた。だが目は笑っていない。ビー玉のように光る瞳は底冷えがするように寒々しい。
背中を流れ落ちる冷たい汗を感じながら、僕は息を整えてから口を動かした。
「いくら隣に稲荷神社があるからと言って、神様が、こんな古い建物に住まないでしょ」
「色々と事情があるのよ」女の人が眉根を寄せた。
「事情とは何ですか。まさか神様の国から夜逃げでもしたんですか」
僕の何気ない一言に、四人は押し黙ってしまった。
当たりらしい……。
気まずい沈黙に耐えられず、僕は軽口を叩いた。
「神様なら色んなことができるんでしょ。何か凄いことを見せてください」
再び四人は顔を見合わせた。
今度はお前が行け、というように、禿げた老人に目配せされ、女の人が面倒くさそうに口を開いた。その声は深い洞窟の底から湧き出たように冷たい。
「見せてあげてもいいけど、あなたは耐えられるかしら」
心臓を冷たい手で握られたように、全身がざわめく。
耐えるって、何だろう。僕は痛いのは苦手なんです……。
頷き返すより先に、視界が真っ白になった。
第3章3-2へ続きます。
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