お粥やの物語 第1章4-2 「初夏なのに、夜の雨はとても冷たくて」
頬にポツンと、冷たいものが当たった。
瞼を開けると、薄汚れた少女の姿は消えていた。
夜の公園は、重たい闇に包まれている。
やはり幻だったのか……。
それにしては妙にリアルだった。少女の青い瞳も、薄汚れた白い肌も、しっかりと脳裏に残っている。もちろん、歯を剥き出した馬の顔もだ。
ポツリ、ポツリと冷たい粒が立て続けに頬を叩いた。
月の光も、星の輝きも見えない夜空から、雨が降ってくる。
ついてないな……。
雨粒は、瞬く間に大きくなり、数を増していく。七月の雨は想像していた以上に冷たくて、このまま濡れたら風邪を引いてしまいそうだ。
僕は避難場所を探そうと、急いで腰を持ち上げ、公園から飛び出した。
リュックの底に折り畳み傘があるはずだが、社宅を追い出されたとき、私物を手あたり次第詰め込んだため、取り出すのは困難を極める。そんな暇があったら雨宿りできる場所を探したほうが利口だろう。
泥で汚れた革靴が水溜まりを弾いた。
車のクラクションが響き、低いエンジン音がすぐ横を走り抜けていく。
大量の水飛沫が顔にかかると体の芯が冷たくなった。
くそー……。
思わず、悪態が口から溢れ出た。
これじゃ、踏んだり蹴ったりだ。
苦い息を吐きながら、顔を上げると、薄暗い道路の先に、フサフサの尻尾を振りながら走る焦げ茶色の影があった。赤い車の下に隠れた奴らしい。
そいつは、ピタリと立ち止まると、首を捻るようにして僕を見た。
愛らしい丸目ではなく、がんを飛ばしてくるような釣り目だが、威圧感はない。どちらかと言えば、哀れを誘う顔面だ。
どこかで見たような気がする……。
そうだ。公園で見かけたやせ細った犬だ。
あれは一ヵ月前、梅雨の真っただ中。そいつは公園の茂みの中にひっそりと身を潜めていた。くっきりと浮かび上がった肋骨が可哀そうで、僕は近くにあったコンビニで、パンと魚肉ソーセージを買って与えた。
ちなみに、僕はそいつに「スジ太」と命名した。
鳩や野良猫に餌をやってはいけないことくらい知っている。
それでも、僕は痩せ細ったスジ太に食べ物を与えたいと思った。
そのときの僕にとって、良いとか、悪いとか、そんなことはどうでもよく、ただ単に、スジ太の空腹を満たしてあげたかった。
会社であえぐ自分の姿を、やせ細ったスジ太に重ねていたのかもしれない。
野良犬なら、遅かれ早かれ、保健所に連れて行かれる運命だ。
ひと昔前ならともかく、現代の街中で、野良犬が暮らすのは不可能だ。
食べられるようにラップを剥がしてから、ベンチの横にそっとパンとソーセージを置いた。砂が付かないように、その下にビニール袋を敷いた。
スジ太は食べ物と僕の顔を交互に見比べるだけで、近づいて来なかった。
見られていたら食べられないよな……。
そう謝りながら、僕はその場から静かに離れた。十分ほど周辺をぶらついてから公園に戻ると、パンもソーセージも綺麗になくなっていた。食料だけでなく、下に敷いておいたビニール袋も消えていた。
ウミガメじゃないから、半透明の袋をクラゲと思って誤食する心配はないだろう……。
いや、あの間抜け顔からして、ビニール袋を飲み込んだ可能性はある。
そう考えると、無性に心配になったが、さりとてどうすることもできず、僕は渋々と人気のない夜の公園を後にした。
そのスジ太が前を歩いている。
「ついて来い」というように、スジ太が頷いたように見えたのは、僕の心が弱っているせいだろうか。
スジ太は前に向き直ると、ゆっくりと歩き出した。
僕は、左右に揺れる尻尾を眺めながらスジ太の後に続いた。
前見たときより、僅かではあるがスジ太の肉付きはよくなっている。それでも痩せているのは同じで、栄養が一点に吸い取られたように、尻尾がフサフサなのも変わっていない。
雨粒が大きくなり、数が増した。灰色の道路は瞬く間に黒く染まっていく。
前を進むスジ太の足取りが速くなった。
遅れまいと、僕は荒い呼吸を繰り返しながら必死に足を動かした。
どこを、どれくらい進んだかは覚えていない。
気が付くと、夜空に向かって、四方に枝を伸ばした樹木の下に立っていた。
その下だけ、道路は濡れていない。
気が付くと、スジ太の姿はなかった。
「もしもし」と声を発しても返事はない。
「ワンワン」と小さく叫んでみたが、聞こえてくるのは道路にぶつかって跳ねる雨の音と、頭上から降ってくる、葉擦れの音だけだ。
スジ太は、雨宿りができる場所まで、僕を連れて来てくれたのだろうか。
鶴の恩返し、ならぬ、スジ太の恩返しか。
どうせなら、温かい家か、お金のほうがよかった……。
いかん、いかん。首を振ってその考えを頭の中から追い払う。
見返りを求めて、パンとソーセージを買った訳ではないのだ。
道路の向かいに、見覚えのある看板があった。いまは暗くて読めないが、看板には「せいの駄菓子屋」と書いてあるはずだ。
毎朝、通勤途中に店の前を通っているが、いつも扉はぴったりと閉まったままで、三年半の間一度も開いているところを見た覚えがない。
強い風が吹くと、ガサガサと葉が揺れ、二つ、三つと大粒な雨が落ちてきた。
首筋に落下したその一つはとても冷たくて、体の芯がブルっと震えた。
リュックを地面に下ろし、キャリーバッグの上に紙袋を載せた。
大きく息を吸い込み、「頑張らなきゃ」と声にしてみる。
尻つぼみの声は、風船から空気が抜けたように弱々しい。
もう一度、声を出そうとしたが、結局は口を閉じてしまった。
第1章5-1へ続きます
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