神様のことを知るために。 ~出エジプト記(マナ)~
イスラエルの人々は神様の守護によって、エジプトを無事に脱出することができました。
しかし神様はイスラエルの人々のためを思い、カナンへの近道であるペリシテ街道を避け、葦の海に通じる荒れ野の道にイスラエルの人々を迂回させられました。
荒れ野の道でイスラエルの人々は、エジプトで肉やパンをお腹いっぱい食べたことを思い出し、モーセとアロンに不平を言いました。
神様はイスラエルの人々のために、天からパンを降らせてくださると仰いました。
そのパンは、その日必要な分だけを集めるよう、定められました。
ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっているとも仰いました。
七日目は安息日であるため、六日目だけは翌日の分を蓄えることが許されたのです。
神様は、食料のことで不平を言うイスラエルの人々に対して、お怒りになるのではなく、天から毎日パンを与えてくださると約束してくださいました。
神様の心は、人間の想像をはるかに超えるほどに、偉大な愛で満ち溢れていらっしゃるのだと感じました。
そのパンを一日に必要な量だけしか集めてはいけない、と定められたことの意味とは、より多く持つ者とより少なく持つ者が生じることを避けるためであったと考えられます。
このことは、安易な平等主義とは違う、神様の人類への深い愛による理知が感じられます。
そして、六日目だけは翌日の分を蓄えることができるようにされたことにより、イスラエルの人々はきちんと安息日を守ることができました。
ここにも神様の、人類への細やかな愛が感じられます。
神様はイスラエルの人々が述べた不平を聞いてくださり、夕暮れには肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて満腹にしてくださるというのです。
人間の常識で考えると、神様に不平を言うことなど恐れ多いことだと思います。
しかしながら聖書には、『求めなさい。そうすれば、与えられる。』と書かれています。
イスラエルの人々は肉とパンを求めたことによって、神様から与えられました。
このことによって、求めれば与えられる、ということが分かります。
夕方になると、うずらが宿営を覆うほど飛来してきたため、イスラエルの人々はうずらの肉をたくさん食べることができました。
「うずら」とはキジ科の鳥類で、高たんぱく低カロリーで栄養価が高く、味も良いそうです。
朝には、宿営の周りに霜が降りました。
この霜こそが、神様がイスラエルの人々に食物として与えられた、パンなのでした。
『イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。』(出エジプト記16.31 新共同訳)
現代人が想像しても本当に美味しそうなマナ(パン)を、神様はイスラエルの人々に毎日与えてくださったのです。
このように心と思いを込めて、美味しく栄養のある物を与えてくださるという、神様の人類への優しく温かい愛が伝わってきます。
主の思考回路は、愛の思考回路であり、そこに自分中心の考えは一ミリたりともない。そして、主と同じ思考回路を持てるように自分自身を作りなさい。
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