神様のことを知るために。 〜士師記(カナンの征服)〜
「士師記」とは、神様が共にされた「ヨシュア」という、イスラエル民族の指導者が生涯を閉じた後の書物になります。
ヨシュアはカナンの地を、神様がモーセに告げられたとおりに、イスラエルの各部族ごとにくじを引いて、嗣業の土地として分け与えました。
これからまだイスラエルの各部族は、カナンの地の先住民族と戦い、各土地を占領していかなければなりませんでした。
誰が最初にカナン人を攻撃すべきでしょうか、との問いに神様は、『ユダが上れ。見よ、わたしはその地をユダの手に渡す』と仰いました。
ユダは兄弟シメオンと共に戦い、神様はカナン人、ペリジ人を彼らの手に渡されました。
彼らはベゼクで一万もの敵を撃ち破り、逃走したアドニ・ベゼク王は捕らえられ、手足の親指を切断されてしまいました。
かつてアドニ・ベゼク王は、七十人もの王たちの手足の親指を切って、自分の食卓の下のパンくずを拾わせ、卑しめていたからです。
『かつて七十人の王の手足の親指を切って、わたしの食卓の下で食べかすを拾わせたことがあったが、神はわたしが行ったとおりにわたしに仕返しされた。』
神様とは、「その人が行った通りに報いられる方である」ということが分かります。
ユダの人々はカナン人と戦いましたが、全てを占領できた訳ではありませんでした。
『主がユダと共におられたので、ユダは山地を獲得した。だが、平野の住民は鉄の戦車を持っていたので、これを追い出すことはできなかった。』
神様がユダと共におられたのに、ユダは平野の住民を追い出すことができなかったということです。
何故でしょうか。平野の住民が鉄の戦車を持っていたため、ユダの人々は初めから勝ち目がない、と諦めてしまったのではないかと感じました。
神様への不信仰という「罪」と、人間的な考えを抱いてしまったことによって、神様の御心とユダの人々の行いに「ずれ」が生じてしまったのではないかと思いました。
さらにベニヤミンの人々は、自分たちの土地から「エブス人」を追い出さなかった、ということです。
『エルサレムに住むエブス人については、ベニヤミンの人々が追い出さなかったので、エブス人はベニヤミンの人々と共に今日までエルサレムに住み続けている。』
これは、由々しき事態です。
神様は、アブラハムの子孫にカナンの土地を与えることを約束しておられました。
そしてカナンを占領するときには必ず、先住している七つの民を滅ぼし尽くさねばならないと、神様はご命じになっていたのです。
それにもかかわらずユダ族やベニヤミン族の人々は、神様の御言葉に従順に忠実に従うことができず、カナン人やエブス人を滅ぼすことを遂行しなかったのです。
その他のイスラエルの部族の人々も、ことごとくカナン人たちを滅ぼし尽くすには至らず、カナン人たちを強制労働に服させるに留めてしまいました。
ここで注目すべき点は、イスラエルの各部族の人々はカナン人を「追い出せなかった」のではなく、「追い出さなかった」と書かれていることです。
何故でしょうか。私が感じたこととは、イスラエル民族と「カナン人」とが「親類」に当たるからなのではないか、ということです。
カナン人とは、ノアの息子のうちハムの子カナンの子孫であり、イスラエル民族とは、ノアの息子のうちのセムの子孫ヤコブから生まれた民族であるため、カナン人とイスラエル民族とは「いとこ」のような関係であるからです。
旧約聖書『創世記』の中で、アブラハムは甥のロトに次のように語っています。
『わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。』(創世記 13.8 新共同訳)
もしもイスラエル民族がカナン人から、このように語りかけられたならば、カナン人たちを滅ぼし尽くすことができるでしょうか。
神様への強い信仰と忠誠心が無ければ、かなり難しいのではないかと感じます。
イスラエル民族がカナン人を追い出さなかった理由として、私がもう一つ考えられることとは、もしもカナン人を全滅させてしまったら、奴隷の仕事は誰がするのだろうか、奴隷として使う方が都合が良いのではないか、という人間的な考えがあったのではないか、ということです。
例えどのような理由や考えがあったとしても、神様が約束されたカナンの地において、イスラエル民族が神様の御言葉にきちんと従わず、神様を悲しませ落胆させてしまったことに相応する報いを受けることとなります。
神様の御使いは、イスラエル民族に仰いました。
『わたしはあなたたちと交わしたわたしの契約を、決して破棄しない、あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならない、と。しかしあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。』
そのためもう神様が、カナン人たちをイスラエルの人々の前から去らせることはしない、と宣告されたということです。
そして、カナン人たちはイスラエルの人々の隣に住み、彼らの神々がイスラエルの人々の罠となることが預言されました。
こう告げられたイスラエルの人々は、声を上げて嘆いたということです。
このように自分を含め人間とは、少しくらい罪を犯しても大丈夫だろうと、油断し慢心してしまうという所が、多かれ少なかれあるのではないかと思います。
人間にはこういった弱さがあるため、毎日繰り返し御言葉を学び、聖書を読み、自分を律していかなくては、神様の御言葉に従順に忠実に従うことはできないのだ、ということが分かります。
「聖書」という神様が人類に与えてくださった書物とは、古代の人々にも現代を生きる私たちにとっても必要不可欠な「悟り」を得ることができる、かけがえのない「宝」の御言葉であるのです。
聖書には、一人一人に主が用意した御心と使命が封印されて書かれてある。だから、聖書を繰り返し深く読んでその封印を解き、主の用意した御心と使命を見付けなさい。
罪は愛することを阻害する。だから罪を犯す者は、聖書で最も重要な掟である「主を愛し、隣人を愛しなさい」という掟を守ることができず、主から祝福されることもなく、主から使われることもない。
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