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髪型は視覚文化か?|髪棚の三冊 vol.2
『視覚文化「超」講義』(石岡良治/フィルムアート社)
『みだれ髪』(与謝野晶子/新潮文庫)
『感覚の力』(コンスタンス・クラッセン/工作舎)
■美容師の流儀
前号を読んでくださった方から、「どうして1冊づつではなくて一度に3冊も取り上げるのですか?」という質問をいただきました。本はじっくりと1冊づつ味わいたいので、という至極尤もなご意見です。
ですが、このコラムでは敢えて「同時多読」という習慣こそを、美容師に相応しい流儀として提案しようとしています。
あらためて申し上げるまでもなく現代は情報過多の時代であり、とりわけ発達した視覚メディアには「匂い、触覚、味などの五感を拡張するだけでなく、物語のようなものを考えさせたり、概念的な嗜好を誘ったりといった、感性の次元を越えていく作用」(『視覚文化「超」講義』石岡良治/フィルムアート社)があります。
そのなかで美容師は、お客様やモデルさんの視覚的価値を増大させることを通して、その視覚イメージに宿された様々な記号(コード)を再編集する使命を託されている訳ですから、髪型という三次元の立体造形に携わる者としては、せめて3方向からの視点を準備しておく必要があるように感じています。
例えばサロンで髪型をデザインする時、先ず最初に(1)「ヘアカタログ」を開いて(開かない場合もありますが)注文を承ります。それと同時に、お客様の服装や表情や口調などを観察したり、近況や世間話などを会話しながら、デザインを組み立てる上で役立ちそうな情報を収集します。これはお客様の(2)「アルバム」を開く作業に喩えることが出来るでしょう。そしてそれらいくつもの情報を総覧しながら、美容師は自身の培ってきたメソッドやノウハウを詰め込んだ(3)「ファイルブック」を紐解いて髪型を形づくって行きます。
つまり、いつだって美容師は開かれた3冊の間を行き来しながらデザインに向かっているのです。
物事には何であれ多面的で多様多層な意味や物語を孕んでいますから、こと美容師に限らずデザインの現場では、そういった複数の視点を孕を重ねたり按配したりする作業が要請されているのです。
と言っても、膨大な情報に対応する為にいちいち足を止めていては仕事になりません。さらりと「複数の速度の尺度」を交差させて測度感覚を最大化させながら、ひらりと粋にデザインを提供して行きたいものです。
「Don't Look Back」ボブ・ディラン(1967年)
◆ボブ・ディランは、1965年の英国ツアーを追ったドキュメンタリー映画の冒頭で歌詞カードをめくる演出を行い、これが後のPVのはしりとなった。◆しかし、この一発撮りのようなライブ感が同時代に影響を及ぼすことはなく、80年代に入ってMTVでローテーションされることで再評価された。◆動画時代に至ってディランの古典が再び注目されたように、現代は新しいコンテンツばかりが市民権を得る時代ではなくなった反面、全てが"現在の表現"として同じフィールド上に起伏なく並べられるようになった。◆それらコンテンツの一つ一つは、そこへ差し掛かる者がそれぞれに持ち込む尺度によって、そのつど意味や価値が更新されて行く。
■みだれ髪の残像
美容師の仕事は「髪型」を造形することです。とりわけ通常のサロンワークでは、その造形の過程でお客様の希望や気分に寄り添いながら、お客様自身が腑に落ちるようにサポートすることが求められます。
このとき、出来上がった髪型がたとえ"客観的に似合うヘアデザイン"だったとしても、お客様自身の"主観的な居心地の良さ"が伴っていなければ、心からお客様に喜んでいただくのは難しいでしょう。
つまり美容師が提供する「髪型」は、たんに視覚的な造形だけでなく、それを通した「感覚体験」までもが含まれるのです。
そこで、「髪」をめぐる感覚体験について概観してみようと思います。
日本では古来、「髪」は情念を表象するものとして詩歌などに詠まれてきました。右に江戸期の俳人や平安朝の歌人たちの優艶な作品をセレクトしてみましたが、この他にも散文では、武士の顔にかかる髪や相撲取りが一番終えたあとの荒ぶる様子などが「みだれ髪」として表現されています。
枕する春の流れやみだれ髪(与謝蕪村)
黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(和泉式部)
かきやりしその黒髪のすちごとにうちふすほどは面影ぞ立つ(藤原定家)
長からむ心も知らず黒髪のみだれたけさはものをこそ思へ(待賢門院堀川)
日本語の「髪の毛(カミノケ)」が「神の気(カミノキ)」と相通じるように、またハワイではフラの踊り手に髪を切らない禁忌が伝わるように、髪には男女問わず神性や霊性が宿る依り代としての意味合いが、とりわけ南方海洋系の文化圏には色濃く伝わっているようです。
日本文化の深層にはこうした神観念が通奏低音として息づいている訳なのですが、その話はまたの機会に譲ることにして、ここでは蕪村の「枕する春の流れやみだれ髪」の句で、女性の髪が水のイメージとリンクされていることに注目しておきましょう。やわらかで艶かしい官能的な曲線美が、滑らかな水の触知感を媒介にして、鮮やかなヴィジュアルイメージとして伝わってくるようです。
与謝野晶子の処女歌集『みだれ髪』(1901年)は、こうした「髪」に託された匂い立つような官能表現の直系にあるのだろうと思います。明治の女学生がこれほどストレートに恋や性を謳い上げていることにも驚かされますが(ここには上げませんでしたがかなりエロティックな歌も少なくありません)、美容師としては「髪」をめぐる妖艶な表現から醸される芳醇なイメージに刮目せさざるを得ません。
髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ(与謝野晶子)
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな(与謝野晶子)
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす(与謝野晶子)
くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる(与謝野晶子)
こうした日本人の心に受け継がれる「髪」の情緒は、決して日本固有の感性ではないようです。むしろ晶子の鮮やかなヴィジュアル感覚は、同時代の西欧アールヌーボーの絵画作家たちの意匠と響き合っていました。
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中:「桜草」アルフォンス・ミュシャ(1899年)
右:「みだれ髪(表紙画)」藤島武二(1901年)
◆歌集『みだれ髪』の表紙画には、うねりからむ渦巻紋様や血の香を帯びた色彩など、同時代の西欧が指向したアールヌーボーの影響が見てとれる。◆初版本の扉次頁には「この書の体裁は悉く藤島武二先生の意匠に成れり。表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて矢の根より吹き出たる花は詩を意味せるなり」との一文が添えられている。
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右:「宮の自決(『金色夜叉続編』口絵)」(鏑木清方1902年)
◆なまめかしい水と女性の曲線は、アールヌーボーに先立つラファエル前派の作品でも好んでモチーフにされた。◆しかし、これらの絵画がいかに美しく描かれていようとも、それらはいずれも骸となった女の姿でしかなかった。後のアールヌーボーの曲線が、それ自体いのちある生き物のような動的にうねり流れる紋様であったのと好対照に見える。
■薔薇の敗北
明治日本の女流歌人に鮮烈な視覚イメージを残像させた本家本元の西欧では、キリスト教以前の古代、神は「芳香」に宿ると考えられていました。魂は呼吸と関連しており、それらが出入りする空気の中をさまよう芳香こそが、神と人とを魅きつけ、結びつけるのだという考えです。「神は完璧な芳香である」とされ、その嗅覚イメージを象徴するものの一つが薔薇でした。
その後、神聖だったはずの「匂いのシンボリズム」はキリスト教の禁欲的な戒律によって抑圧された挙句、17世紀後半以降は啓蒙時代を経て「科学」が勢力を増したことに伴って、その玉座を「視覚」へと明け渡して行きます。あらゆるものを鳥瞰できる視覚こそが、五感のうちで最も近代科学との親和性に優れていたからでした。
そして「匂い」の凋落にさらなる追い討ちをかけたのは、18世紀に登場した風景式庭園(イングリッシュガーデン)の視覚中心主義でした。そこに植えるために開発された新種の薔薇は芳香よりも視覚的外観に主眼が置かれ、芳しい多年性植物よりも派手な色彩の一年性植物が好まれるようになったのです。
また同時に、勃興期の産業革命も手伝って「衛生」が強調され始め、街には下水溝が敷設されて人間の生活環境から「匂い」が排除されて行きました。
やがて、社会に残された「匂い」は文明化された人間を誘惑する自己陶酔的な快楽か、さもなければ、社会にとっての「よそ者」を規定するような悪臭ばかりになってしまいました。近代社会にとって悪臭の大半は、異文化や貧困に由来する差別記号であることが少なくありません。
人間にとって内臓感覚を含む五感の身体感覚は、普段あまりにも当たり前なので、それが文化的産物であることに気づくのは稀でしょう。それゆえ人は、異質な匂いや手触りや、珍しい味や音に出会った時、それらを「生理的に」拒んだり、「盲目的に」貪ったりしてしまうのでしょう。
つまり、美容師にとっての活動領域である「感覚的価値」というものは、一見個人的な趣味嗜好と捉えられがちですが、実のところ歴史や社会情勢と不可分であることを改めて確認しておかなくてはならないのだと思います。
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ところで『みだれ髪』で鮮烈にデビューした晶子は、3年後、日露戦争へ出征する弟へ反戦詩『君死にたまふことなかれ』を捧げて、忠君愛国の流行に意義を申し立てます。近代人の自我の解放と表出を極限まで突き詰めた「やわ肌」の皮膚感覚は、国家の論理がもたらす悲劇を鋭敏に察知したのでしょう。
ところが当時の論壇は、弟を案じる姉の真情を「世を害する思想」として非難したのです。
これは今から120年ほど前の出来事ですが、近代の国家や社会が何をどのように排除してきたのかについて、身体的な感覚体験を通して捉え直すことは美容師にとって有効な視点を提示する筈です。何故なら「感覚的価値に社会的価値をしみこませることで、社会はそのメンバーたちが世界を正しく把握できるようにする」(『感覚の力』コンスタンス・クラッセン/工作舎)からです。
髪にタグ付けされた様々な社会的記号を個人的な感覚体験に還元させることが出来るのは、髪(=神)に触れる美容師にこそ託された職能なのだと思います。