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寂しい思いはもう十分なのに

終業式がいつも寂しかったなぁとふと思い出した。

引き出しのなかからぐちゃぐちゃになったお道具箱を引っ張り出して、あれ、失くしたと思っていたプリントがくちゃくちゃに丸まっていたや、なんて発見して、それらを全部詰めて、ゴムバンドで留めてランドセルに押し込む。

しばらく教室の後ろに貼ってあった絵は、外気にさらされてカピカピとしている。

それと、牛乳の匂いのする雑巾も、一緒にぎゅうぎゅうと詰めて金具をまわした。

「来年も、先生だよね?」と聞くと、「さぁ、どうかしらね」と普段通りの調子で答える先生の目尻に涙が浮かんでいて、ああ来年はきっと違う先生になってしまうのだと子供心ながらに悟ってしまう。

先生も寂しいのだ、わたしと同じように。

そう思うと、悲しいくせに大人と子どもの距離が縮まったようで、きゅっと嬉しくなる。

重たいランドセルを背負って、次は場所が変わってしまうであろうささくれた下駄箱を指でそっとなぞって、校門へとかけていく。

そんな思いはもう、たくさんだ。

別れは、どの瞬間が多いのだろうと考えてみると、決まっていつも幼少期で、小さい頃は、近所の友だちが隣町に引っ越してしまうだけでもう、それは永遠の別れに等しかった。

「また会おうね」の約束。守られることのない約束。小学2年生の姿のまま笑う彼女は、未だにアップデートされないまま、小さく揺れている。

それをずっとずっと繰り返して、大人になったら、少し別れが減ってきた。

隣町には電車一駅ですいっと行けることがわかってしまったし、息を潜めて電話番号を押すことも、手紙を書くこともなくなった。

それでも、彼女とわたしの絆はもう二度と戻っては来ない。

大人にとっての「隣町へのお引越し」は、わたしたちにとっては、「永遠の別れ」なのだから。

今いる場所を離れるのだと言われて、ツンと鼻の奥が痛むのはどれほどのことだろう。

また新たな場所へと引越しを決めた途端、安堵と寂しさの風が吹き荒れた。

自ら終業式を迎えることを選んだような気持ちだった。

人も場所も、お別れを告げる瞬間はいつだって寂しい。

足を伸ばせば会えたとしても、伸ばさない限りは会えない人や、見えない景色。

お気に入りのお昼寝場所。たくさん失敗を重ねて汚れてしまったコンロとか、小さくても居心地の良いベッドの上だとか。

もう誰のせいにすることもなく、誰にお別れを告げるでもなく、好きな場所に居続けることが許されているというのに笑ってしまう。


また、終業式を迎える。

否応なしに何度も何度も。


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