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「経験」したような気になってないか?
役者をしている友人に久しぶりに会ってきた。
ずっと演劇をやっていた彼女だが、ここ数年は地方を旅したり、海外に行ったり、演出側にまわったりと、しばらく演技をすることからは離れていたらしい。
そして、大きなブランクを経て、「鈍っているだろうな」と久しぶりにオーディションで演技してみたところ、かつての自分の感覚とはまた違う演技ができたそうだ。
演技はテクニックではあるけど、一方で「経験値」というのも大きく影響してくる。
たとえば、失恋したことがある人と、失恋したことがない人とでは、「失恋した人」の演技はまるで違ってくると思う。
前者が自分のなかの引き出しから持ってくることができるのに対し、後者は誰かの気持ちを借りてくるか、想像を働かせて、気持ちをなんとか寄せて作っていくしかない。
もちろん、たくさんの舞台や作品に触れることは大事だが、やっぱり生の経験には敵わない。
だから、いろんな経験をすることが大切になってくる。
その話を聞いて、ふと思ったのが、自分はなんとなく「経験した気になっている」んじゃないかということだ。
仕事柄、いろんな人にインタビューをする。
「なるほど」と思うこともあるけれど、それはあくまでその人の経験があってこその言葉であって、きっと本質は100%汲み取ることは難しい。
今、いろんな記事や本が溢れていて、それを読んでいると世界を知ったような気になってくるし、たくさんの経験をしてしたかのように錯覚してしまう。
でも、家でYouTubeでグランドキャニオンの映像を観ているのと、実際にグランドキャニオンを見るのとでは全然違うと思うのだ。
たとえ、超高画質で、視覚情報としては同じだったとしても、感動レベルまでは至らないし、別に思い出もないから記憶に残らないと思う。
私は、アメリカに住んでいたときにグランドキャニオンに行ったことがあるが、どこまでも続くオレンジ色の景色に途中で飽きていた。
でも、そんなオレンジの山々の隙間に一本の細い川がちょろちょろっと流れていて「こんな石のような山にも水があるんだなぁ」と思ったこととか、家族でだらだら山登りをしたこととか、途中でトイレに行きたくなって死にそうになったこととか、車の中が暑すぎてiPodが壊れたこととかは鮮明に覚えている。
そんなん、経験しないとわかんないじゃん。
あんなにも素晴らしいとされているグランドキャニオンが「景色が同じすぎて途中で飽きる」ものだなんて、行ったことのない人にとってはにわかに信じがたいことである。
もちろん、感じ方は人それぞれだから、「いつまでも見ていられる」という人もいると思うけど、それも経験してみないとわからない話である。
要するに、情報が溢れすぎていて、私たちは確かめることすらしなくなってきてるんじゃないか、と思うのだ。
どこかで「聞いたことある」「見たことある」「だから知ってる」で終わっちゃってるんじゃないかとか。
「経験」は何ものにも代え難い。
グランドキャニオンを見なくても死にはしないよ。
でも、実際に見ると、自分のなかに何かがちゃんと残るんだと思う。
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