長女、期待、優等生
私の闘病の記録を書いていくにあたって、
まず、私の生育歴を振り返ってみたいと思います。
私のTwitterの方のフォロワーさんの中には今学生さんで
生きづらさを感じている方もたくさんいらっしゃるので
私の生育歴も何かヒントになるのではないかと感じているからです。
私自身、自分が精神疾患に罹患したのは少なからず
自分のこれまでの生き方が関係していると思わずにはいられないのです。
私は長女です。
親戚の中でも一番上に生まれたいわゆる初孫でした。
小さな頃は大人たちに囲まれて過ごしました。
そして私の母は看護師です。
正直、幼少期に母と過ごした記憶はありません。
私の母は1年の育児休暇を取得したのち、すぐにフルタイム夜勤ありの
職場に復帰したので、私は保育園に入るまで祖母の家で1日を過ごしました。
初めて喋った言葉は「ばーば」、初めて歩いたのも祖母の家です。
朝、まだ起きていない私は母に担がれて祖母の家に預けられ、
夜、眠った頃に母に連れて帰られる、そんな生活でした。
なので、幼い頃母と過ごした記憶がないのです。
2つ下に弟が生まれましたが、今度は母はわずか10ヶ月で復職しました。
このような生活は保育園に通うようになってからも変わりませんでした。
朝は母と共に朝早くに保育園に預けられ、迎えは祖母が来てくれて
母が仕事を終えて帰ってくるまで祖母の家で過ごしました。
小学校に上がってからは、母が夜勤のときは私たち姉弟が寝るまで
祖母が一緒に過ごしてくれ、眠った頃に帰っていく生活に変わります。
しかし、幼かった私は家に私たち子供しかいない環境(当時、父は出張ばかりでほとんど家にいませんでした)で、弟を守らなければならない責任感を強く持っており、何度も夜中に目が覚めて自宅の鍵がかかっているか不安で確認をしていました。
そんな思いをして過ごしていたからか、私はいつしか
看護師という職業を嫌うようになりました。
「絶対にお母さんのようにはならない」
私は強く決意していました。
母は私が優等生であることを誇りに思ってくれていました。
私も忙しく過ごす母に心配をかけないよう、母の望む私を
演じました。
そうして、大人の顔色を伺い、望む行動を自ら取るような
子供に育ちました。
親に何か言われなくても、勉強は得意な方でしたし、
友達も多かったと思います。
そんな生き方を中学生の頃まで続けました。
まずその生き方が崩れたのは高校受験です。
私は高校受験で失敗しました。
第一志望の公立高校に落ちてしまったのです。
第二志望の私立高校に入学しました。
人生で初めての挫折を味わいました。
優等生を演じていましたが、実際にそれなりに
優秀だったと思います。
親や周りの大人に迷惑をかけないように
当たり障りのない生活を送っていた私が、
親に迷惑をかけてお金のかかる私立高校に。
入学してからは進学校だったこともあって、
朝は1限の前から授業があり、放課後も多いときは
9限まで授業がありました。
とにかくひたすら勉強をしていた記憶しかありません。
勉強ばかりで息苦しい毎日でしたが、
同じように頑張っている同級生や理解のある先生方に恵まれ、
なんとか過ごすことができていました。
そんな私が、また躓くのは大学受験のお話です。
長くなってしまったので、続きはまた書きますね。