ジャズピアノの奏法に革命を起こした偉大なるジャズマン、マッコイタイナーが2020年3月6日に惜しくも天に召された。 モダンジャズの世界に多大な影響を与えたマッコイタイナー、影響を受けてないジャズピアニストなんていないと思うが特に影響を感じるジャズピアニストにケニーカークランド、益田幹夫がいる。 まずは軽く経歴を追っていきたいと思う、ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれたマッコイタイナー、母親の薦めでピアノを始めたが始めたのは13歳と意外な程に遅い。 ただそのスタートの遅さをものともせずに、近所に住んでいたバドパウエルの影響を受けメキメキと頭角を現したマッコイタイナーは1960年に若干21歳でジョンコルトレーンカルテットの一員になりジョンコルトレーン、ジミーギャリソン、エルヴィンジョーンズの黄金のカルテットと共に「至上の愛」「Ballads」「Giant steps 」などの歴史的名盤の録音に参加しシーンの中心に頭角を現す事になる。 1965年にコルトレーンと袂を分かつ事になるが、これはフリージャズに傾倒するコルトレーンと調性を守りたいマッコイタイナーとの音楽性の相違が理由と言われている。 独立したマッコイタイナーはBlue Noteと契約し全曲マッコイタイナーによる作曲でそしてその全曲が多くのジャズマンによって演奏されスタンダードになる名盤「Real Maccoy」を録音する。 このタイトルだが禁酒法時代のスラングが由来となっている、粗悪な密造酒が多く流通する中での本物の酒を「Real Maccoy」と呼んでいたのだ。 コルトレーンの元を離れたマッコイは音楽以外の仕事につく事を真剣に検討するほどに経済的に困窮していた、その生活の中でも自分が本物だという自負があったのだと思われる。 Real Maccoy以降も「Atrantis」「Fly like wind」「Extensions」などの傑作を70年代に録音する。 また80年代に入ってからも新生Blue Noteからリリースされたジャッキーマクリーンとの双頭リーダー作「It's about time」は内容の素晴らしさもさることながらレジェンドの共演は話題を呼び商業的な成功も収める。 晩年は体調を崩しながらも演奏活動を続け、「Solo live in San Francisco」が公式では最後の録音とされている。 また生涯を通し盟友ジョンコルトレーンゆかりの曲を演奏し続けた事で知られている。 余談だがマッコイタイナーは親日家として知られ1966年の初来日以降何度も日本で演奏 活動をしている。
プライベートでも和食を愛し天ぷらとマグロのトロを好んでい るとあるインタビューで答えている。 ちなみにニューヨークのnobuというジャパニーズレストランを行きつけとしていた。 話を本題に戻しその個性的なピアノのスタイルについて検証してみたいと思う。 初期のマッコイタイナーはバドパウエルの影響を強く受けたオーソドックスなビバップのスタイルだったが「Real Maccoy 」以降は左手でパワーコードを押さえ右手でペンタトニックスケールを多用するスタイルに転向し多少の変化はあったものの晩年までそのスタイルを崩す事は無かった。 初来日公演後には日本中のジャズピアニストがマッコイタイナーになったという逸話があるが、その多くは表層的な模倣だけでマッコイの歌心やグルーヴまで吸収できたピアニストは失礼ながら少ないと思われる、そのことに関して日本を代表するジャズピアニストの1人である大西順子さんがTwitterでこのように言及している。 「クラシック習っていた人が安易に手を出す事が多いが殆どが大勘違い、単にヒステリックにペダル使って左手は5度のパワーコード弾いて右手は何でもかんでもペンタだろうみたいな。もっと細かく歌い込まないとこうはならない」 また大西順子さんは、理想のピアニストを訊かれ左手がビルエヴァンス、右手がケニーカークランドというユニークな発言をしている。 冒頭で書いた通り、ケニーカークランドはマッコイタイナーの影響を強く感じるピアニストである。 個人的には、軽やかにスウィングする初期のインパルスレーベルでの作品や黄金のジョンコルトレーンカルテットでコルトレーンの右腕として素晴らしいピアノを弾いた歴史的な名盤の数々を個人的には愛聴しているが、若い世代のミュージシャンは1976年のジャズロック路線の「Fly with wind」が人気があるようでよくカヴァーされている。 日本を愛し日本に愛されモダンジャズの世界に多くの革命を起こした偉大なるジャズピアニストは、「Fly with wind」その曲名のように風と共に我々の目の前から姿を消してしまった。 マッコイタイナーが愛した日本より偉大なるジャズマンのご冥福を心からお祈りします。
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