日本の歩き方 《関西編》 <第6回> 維新の街道を行く
前回は関西の企業を各府県からいくつか紹介してきました。今回は明治維新に縁のあるところをめぐりたいと思います。
村田蔵六(大村益次郎)の足跡を訪ねて
明治維新と言えば、まず適塾です。維新発祥の地と言ってもよいでしょう。
適塾は医者の緒方洪庵によって1838年に設立された蘭学の塾であり、後に近代兵学の祖となる村田蔵六は1846年に門下生となります。塾生には1畳の畳が与えられ、ポジションの良い畳を目指して競い合います。この門下生には、村田蔵六の他、福沢諭吉、橋本佐内、大鳥圭介ら錚々たる面々がいます。時代が蘭学を必要としていました。その後、村田蔵六は長州軍を率いて幕府の征長軍との戦いに勝利し、その後の戊辰の役を勝利に導びきます。
適塾は京阪電車および地下鉄の淀屋橋駅の近く、北浜の土佐堀通りを1つ内側に入った内北浜通りの御堂筋と堺筋の中間地点から少し御堂筋に近いところにあります。この界隈にはレトロな名建築もたくさんありますので、それを兼ねて訪れるのがよいと思います。
腹ごしらえや休憩には御堂筋に面したCafé LEXCELやFRENCH BAGUETTE CAFEが広々としていてお勧めです。Café LEXCELの食事はパスタの他にキーマカレーもあり、さらに隣が三菱東京UFJ銀行のショウルームになっていて、それも併せて楽しめます。また、FRENCH BAGUETTEでは美味しい淡路島バーガーが食べられます。この店舗の奥に工房のような企業さんが入っており、そこも訪ねてみましょう。
戊辰の役に勝利した後、村田蔵六は軍制改革に乗り出します。その一環として、大阪城の東側一帯に大阪砲兵工廠を建設しました。これは薩摩の西郷隆盛らの反政府決起を見通しての布石でした。JR森ノ宮駅を出てすぐ東北方向にある森之宮団地の中に大阪砲兵工廠跡の碑が残されています。
大阪城内に入り、大阪城ホール北西の第二寝屋川に面したところに石造アーチ式の荷揚げ門があります。さらに桃園を京橋口の方に歩いてゆくと砲兵工廠化学分析場が見つかります。
薩摩・長州・新選組が夢の跡
京都木屋町通りを四条から三条へと進み、三条通りを少し河原町通り側に行った北側に居酒屋「はなの舞」があります。ここは、かつて池田屋のあったところです。1864年7月8日、ここで宮部鼎蔵ら20数名の尊王攘夷派志士による京都焼き討ちが計画されていました。そこに、新選組の近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助が切り込みました。これによって、明治維新が1年遅れたといわれます。
【関連情報①】
江戸期において、庶民の身分を脱する方策として、剣術と医術の道が開かれていました。新選組は剣の道によって社会階層の上昇を目指しました。彼らが集った壬生の新選組屯所が阪急四条大宮駅を少し西に進み、坊城通りを約100m(途中で嵐電嵐山線を越える)南下した右側に「八木邸」として残されています。激動の幕末維新が大好きそうな担当者が熱い口調で当時の様子を語ってくれます。
【関連情報②】
東京都日野市に新選組ふるさと歴史館があります。最寄り駅はJR日野駅ですが、そこからが歩いて約30分と、ちょっと不便です。新選組のことだけではなく、養蚕業による多摩地区の発展に関する解説もあります。
木屋町通りをさらに北上して御池通りを越えると、左手の高瀬川をはさんだ向こう側に村田蔵六と佐久間象山の遭難之碑があります。木屋町通りのその場所の右手に桂小五郎・幾松の碑があったはずなのですが、今、ここは更地にされています。したがって、桂小五郎に会いたい方は河原町御池にあるホテルオークラ(旧.京都ホテル)横の小五郎像を訪問してください。かつて、ここに長州藩邸がありました。長州藩の英傑について、高杉晋作を扱った書物は多いのですが、桂小五郎に関する著作は少ないので、読者の力作をお願いしたいと思います。
(↓ 若き日の桂小五郎(左)と高杉晋作(右)。筆者は「奇兵隊」の桂小五郎と周布政之助が大好きです。画像をクリックしてください。)
村田蔵六と佐久間象山の遭難之碑のところから約100m北上すると、左に島津製作所創業記念資料館があります。ここには同社が得意とする理化学機器や医療機器が展示されています。
【関連情報③】
村田蔵六・佐久間象山の遭難之碑と島津製作所創業記念資料館の間に高瀬川一之船入があります。ここは京都と大阪を結ぶ水運の大動脈の京都側ターミナルであり、船の方向転換や荷物の積み下ろしが行われました。
竜馬がゆく
近鉄京都線の桃山御陵前駅と京阪電車の伏見桃山駅を出ると、そこは活気のある伏見大手筋商店街です。この商店街を約300m西に進み、納屋町通りを南に200mくらい進み(その途中で通りの名前が竜馬通りに変わります)、濠川にかかる蓬莱橋の手前を右(西)に曲がると寺田屋に着きます。ここは坂本龍馬をはじめ多くの志士たちが定宿にしていたところです。
ここで、1862年、公武合体派の薩摩藩士が尊皇攘夷派の志士を討伐する寺田屋事件が起こりました。また、1866年にはここに泊まる坂本龍馬が何者かによって暗殺されました。ガイドさんによるわかりやすい解説もあります。
【関連情報④】
この伏見地区には、十石船に乗って三栖閘門まで行くクルーズや、松本酒造や月桂冠などの酒蔵があります。松本酒造の横を高瀬川が流れており、橋の袂からレトロな全景を展望できます。また、月桂冠は大倉記念館で見学できます。
フランス革命と明治維新
著者は最近フランス革命のことを考え始めました。それは、”西側諸国”の国内政治情勢がおかしくなっているように感じるからです。その過程でフランス革命と明治維新を比較する文献にも出会いました。今では死語となった「講座派vs労農派」、「地代論」、「ブルジョア革命」といった用語が甦ってきます。そこでは、江戸幕府あるいは明治政府は絶対主義だったのか、維新はブルジョア革命だったのか、ということが争点となっているようです。
しかし、筆者が思うには、明治維新とは「西欧列強による植民地化を逃れるために下級士族が中心となって国民国家を作った革命」ということになります。そこではイデオロギーなど持ちようがなく、国家の存立だけが絶対命題であって、政体の在り方、ブルジョア階級の育成、土地所有など、近代市民革命をめぐるすべての論点が、その目的のための手段になってしまいます。したがって、日露戦争に勝利し国家存立の制約条件が緩んだことや三英傑(桂・西郷・大久保)とそれに続く伊藤博文らの死去や暗殺によって、大正デモクラシーや大陸への拡張政策といった方向に走り始める余裕が出てきます。
(↑ 「人はなぜ学ぶのか?」 小田村伊之助(後の楫取素彦)は維新の戦乱では目立たない存在でしたが、その後、群馬県の県令として養蚕業の振興に大きく寄与しました。)
明治維新は植民地化の危機を感じとることのできる豪農・豪商を含む読書階級の心に吉田松陰が火をつけて回り決起した革命です。NHK大河ドラマでも「竜馬がゆく」「勝海舟」「花神」「翔ぶが如く」「花燃ゆ」などでとりあげられてきましたが、次に明治モノを扱うときには「岩倉使節団」を題材として欲しいと思います。倒幕を実現した時にはまだ国家構想がなく、岩倉使節団によって欧米といくつかの途上国に接することによって彼らの新国家へのイメージが固まってきたと思われるからです。
「花神」の総集編第一回には「革命幻想」というタイトルがついています。今、我々が生きている日本の夜明けはここから始まりました。革命幻想に浸りながら、今宵はこのあたりにいたしとうございます。