中国ところどころ
中国には行ってみたい所が多いのですが、行きづらくなりましたね。
今まで個人旅行を前提に各地を紹介してきましたが、今回はツアー参加や現地の方の案内を前提に、最もポピュラーな北京を外して紹介したいと思います。したがって、現地への行き方の情報はほとんどありません。悪しからず。
大連と旅順
筆者は1999年に北京と大連・旅順を合わせたツアーに参加しました。その後、日中関係が悪化し、戦前の両国の関係を想起させるツアーは中止になったのかと思いましたが、ネットで確認するとまだ続いていますね。
大連は清岡卓行氏の小説『アカシヤの大連』の舞台です。作家の遠藤周作氏や日本の対外援助政策を担ってきた大来佐武郎氏も大連で少年期を過ごしています。筆者が訪れたときは天候が悪く、大和ホテル(大連賓館)の写真がうまく撮れませんでした。以前に満州から引き揚げてこられた方がホテル内のカフェに何人かいて、過去の追想に涙を浮かべている姿が記憶に残っています。
大連のある遼東半島を先端まで行くと旅順に着きます。旅順は司馬遼太郎氏の大作『坂の上の雲』の多くを占める舞台です。その中の二〇三高地攻防戦は映画『二〇三高地』となりました。当時(1904年)の日本は工業化が始まったばかりで、機械力の不足を肉弾で補う悲壮な光景が見られました。
大連や旅順のある遼東半島の向かい側に山東半島があります。その先端近くにある威海衛は日清戦争当時に欽差大臣・李鴻章直属の北洋艦隊の拠点になっていました。さらに東に進んだ先端に栄成という町があります。かつて、この地を秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて配下の徐福に訪問させたという司馬遷「史記」の記述があります。
長江を下る
三峡クルーズも三峡ダム建設で中止になったのかなと思いながらネットを調べると、これもまだ続いていますね。筆者は1996年に重慶から武漢までクルーズに乗って、武漢で飛行機に乗り換えて上海に行きました。重慶が出発点というところは今も変わっていないようです。船のガイドさんがやたらと無錫(長江デルタ地帯の地名)のことを説明していた記憶があります。
重慶を出るとまず白帝城のところに来ます。船から見上げても城が見えないのか、写真が残っていません。白帝城というと、まず思い出すのが、三国志で蜀の劉備玄徳が諸葛亮孔明のアドバイスに反して長江沿いに呉を無理攻め(夷陵の戦い)、逆に火攻めにあって大敗して白帝城にて死すというところです。
また、李白の詩
朝に辞す白帝 彩雲の間 千里の江陵 一日に還る
両岸の猿声 啼いて住まず 軽舟已に過ぐ 万重の山
というのが思い出されます。
白帝城を過ぎると、瞿塘峡(くとうきょう)、巫峡(ふきょう)、西陵峡と続く三峡の絶景が待っています。三峡ダムを過ぎると平坦な地形が広がり、三国志の最初のクライマックス「赤壁」を通って武漢に着きます。
図南の巻
蜀(四川省)に拠点を構えた諸葛亮孔明も出城としての荊州を失い、大秦嶺山脈を越えて魏の長安を目指す直接的アプローチをとらざるを得なくなります。その前哨戦として、背後の少数民族地域を押さえざるを得ず、雲南の有力武将である孟獲を7度も捕えては解放するという人心掌握術によって平定します。このあたりの地名には勐臘、勐海など難易度の高いものが多いですね。雲南からは3つの大河である長江、瀾滄江(メコン川)、怒江(サルウィン川)が50㎞の幅で流れ出しています。
雲南省の中心都市は昆明です。30年前は自転車の多さに圧倒されました。昆明から南に行くと西双版納タイ族自治州で、その中心都市は景洪です。ここではメコン川の流れを見ることができます。
景洪から50㎞ほど西に行くとタイ族の多い勐海に着きます。
また、景洪から南に約40㎞行くと橄欄覇(がんらんぱ)に行きます。ここにはタイ族の他に、ハニ族もたくさんいます。
景洪から昆明に引き返して北西方向に同距離飛ぶとナシ族自治県の世界遺産麗江に着きます。名前からして麗しそうですが、中国人の観光客でごった返していました。近くには玉龍雪山という万年雪を頂く山もあります。
空港から麗江の近くに来るとレンタサイクルの店がありました。そこから、まず白沙村に行きます。ここには木氏土司が描かせた壁画が残っています(土司とは、中国王朝が隣接する諸民族の支配者たちに授ける官職のことで、ここでは木氏に与えた軍事指揮官の称号です)。
麗江は新市街と古城(四方街)から成り、もちろん古城の方を目指します。そこは石畳の小径が縦横に張り巡らされています。
長城を越えて
新疆ウイグル自治区をめぐる政治的問題で、この方面へのツアーは厳しいのではないかと思っていましたが、存続しているようですね。しかし、観光用に作られた現地の生活しか見られないのではないかという不安があります。大学受験の時に世界史と漢文とNHK特集「シルクロード」の三重奏で中国と欧米しかない頭の中の世界地図に新たな世界「西域」が広がりました。
それでは、西域への旅に飛び立ちましょう。
まず、王維の詩
渭城の朝雨 軽塵を浥す 客舎青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ 一杯の酒 西のかた陽関を出ずれば 故人無からん
を思い出して、トルコ航空のイスタンブール行きに乗ってください。
出発は夜中なので、心の眼を開いて座席の前のフライトマップを見ましょう。北京を過ぎると長城が見えてきます。しばらくすると、右手の陰山山脈周辺に匈奴が疾駆する姿が見えます。このまま河西回廊を進むと、西夏の都であった興慶(銀川)上空に達します。さらに右手遠くに西夏の黒水城、左手に祁連山脈を臨みながら武威、張掖、酒泉、嘉峪関と進むと、西域の入口である玉門関や陽関に着きます。(この匈奴は後にフン族となって東ヨーロッパに現れ、スラブ族、ゲルマン族を玉突きで西に移動させ、西ローマ帝国の崩壊につながったとする説が有力です。)
その近くの敦煌の街から25㎞ほど南東に鳴沙山があり、その断崖が莫高窟となって仏教遺跡が保存されています。その壁画と奈良法隆寺金堂の壁画が非常によく似た構図となっており、仏教伝来の道が奈良まで通じて飛鳥・白鳳文化となって開花したことが伺われます。
(↓ 法隆寺金堂の全12壁画がこれで見られます。)
敦煌を出ると、道は西域南道と北道に分かれ、南道では探検家ヘディンが「さまよえる湖」と名付けたロプノール湖、その畔に楼蘭の都が佇んでいます。ここから右に天山、左に崑崙の大山脈を臨み、タクラマカン砂漠を越え、さらにパミールを越えると、そこは漢の武帝が匈奴対策に汗血馬を求めて張騫を派遣した大宛(フェルガナ)やティムールが眠る都サマルカンド、そしてアレクサンダー大王がギリシア植民を行ったバクトリアとインドのクシャナ朝とアフガニスタンが三重に重なり、満州にいた契丹族が女真族から西に逃れて建国したカラ・キタイ(西遼)、ペルシア帝国のペルセポリス、アッバース朝の円城都市バグダッド、隊商都市パルミラ、そして最後に永遠の都コンスタンティノープル(現イスタンブール)につながります。
(↑ ウイグル人らしい女性が奏でる音色が何とも艶めかしいです。)
今回はこのようなユーラシア大陸のグローバル・ヒストリーを夢見ながら、絲綢之路の映像で締めたいと思います。