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「聖の青春」何十回目の再読、感想
私が読書をするようになってから、これだけは手放さないと誓っている本が3冊あります
①山田詠美著「ぼくは勉強ができない」
②江國香織著「きらきらひかる」
③大崎善生著「聖の青春」
他にも今の私の血肉、骨、魂、自我を形成するに不可欠な作品は幾つもありましたが、上記の3作は高校、大学の頃に強く影響を受けました
中でも何年か毎に必ず読み返す「聖の青春」
幼い頃から重い腎臓病を抱えて、将棋に出会い
家族、師匠、ライバル、後輩、多くの人々との関わりながら名人を目指した棋士「村山聖」を描いたノンフィクション作品です
常に病気と共にあり、死の影を傍らに意識
せざるを得ない棋士が駆け抜けた青春の日々
読む度に涙するのですが、今回も序盤から思いが込み上げました
私は村山君のよう懸命に生きているのだろうか
いつも自分に問い掛けています
対局に行く事すら、体が思うように動かない
部屋の中、台所の蛇口からほんの少しだけ水を
出し、体力を温存するために眠る、起きて水音で自分がまだ生きている事を認識し、また眠るを繰り返し体力をほんの少し取り戻す、そんなエピソードがあります
かと思うと師匠の森先生、著者の大崎さん、
羽生善治、先崎学ら同年代のライバル、友人、
そして倒すべき谷川名人や様々な人達との邂逅は時に可愛らしく、素直でありながら、火の玉のような苛烈な勝負師としての生き方などが
読む度に私の心を熱く揺さぶり問い掛けてます
健康な体、時間も存分にある恵まれている事を忘れていないか、無為に過ごしていないか
「冴えんなあ」
とは村山君の師匠の森先生の口癖です
どちらかと言えば私「冴えんなあ」と言われる生き方なのかもしれません
ただほんの少しでも生きる事の奥底に村山君を忘れたくない、そう思っているから、何度も
読み直しています
作品の中には、こんなエピソードがあります
村山君がずっと切磋琢磨してきた棋士がプロになれず年齢制限で将棋連盟を退会する夜、酒を呑み酔った村山君は路上で一万円札を何枚も
破り出します
「こんなもん、何の意味もない。何の意味も
ないんじゃ」
「生きている人間にはいるけれど、死んで
しまう人間にはこんなもの何の意味もない」
そこからお互いに殴り、村山君は病院に運ばれます
後日、村山君を呼び出した森先生は話します
「わしがその場におっても村山君と同じことをしたかもしれん」
「わからんけど、説明できない悔しさや誰にも言えない怒りというものはわしにもある。
人生や運命に対する無力感はきっと誰にでも
ある。それはきっと村山君がしたようにしか
表現できないかもしれん。少なくともわしにはそれ以外思いつかんねえ」
森先生が村山君を弟子に取ったからこそ、青春のよう多くの影響を受け、輝いたと思います
物事の様々な捉え方も村山君を中心とした
人間関係の中で気付きもあった作品です
映画化、漫画化などもされてタイトルを聞いた事もあるでしょう、もし機会があれば是非
触れてみて下さいませ
私は心に苛烈ながら可愛らしく、素直な村山君と「冴えんなあ」と笑ってくれる森先生を得る事ができ、また会いたくなり、これからも何度も読み返すでしょう
今年お亡くなりになられた著者の大崎先生の
ご冥福をお祈り申し上げます
大晦日に仕事場で読書するのは「冴えんなあ」
お読み下さいまして、ありがとうございます
良いお年をお迎え下さいませ