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善悪の南瓜

ふとした瞬間に見え隠れするものが、多分自分の本質なんだろう。良きにつけ悪しきにつけ、今更どうしようもなく、ただ飲み込むしかないのだった。

「酒は人を変えるものではない。その人が本来持っているものを出すだけだ」と言われる。トロッコ問題を使った検証では、素面の時と飲酒時で道徳観の変化は見られなかったらしい。
実際そうなのだろうと、飲酒をする年齢になって身をもって実感した。
酔ったからと言っていつもより気の利いた事が言えるわけでもないし、何かが上手になるわけでもない。ただ、制限をかけていた「たが」が少しだけ緩み、日頃ひた隠しにしていたはずのものが顔を出してしまう。
ただ、ある意味ではそれを見るためにわざわざ酒を飲んでいるのかもしれない。
言わなきゃ良かった事を言って、やらなきゃ良かった事をやって、それでも他人の隠されていた部分を覗き見る事ができた気がして、だから飲み会は楽しいと思っている。
しかし、他人をのぞくとき、他人もまたこちらをのぞいているのだ。

昔、居酒屋でアルバイトをしていた頃。何度か常連客に飲みに連れて行ってもらった事がある。
スナックと呼ぶにはうるさく、カラオケバーと呼ぶには少しお粗末な、場末の小さなカウンターの店であった。ただ、場所には合っていたのかもしれない。東京の西の、鉄道駅から変に離れた、田舎にも都会にもなりきれない陸の孤島には、そのくらいの店の方が良かった。
残念ながらもう屋号は忘れてしまったその店にはいつも歳上しかおらず、変な緊張感があったのを覚えている。その上、大体いい時間になるとカラオケが始まって、話すのもままならない中結局は「せっかくだから歌いなよ」とマイクを突きつけられて冷や汗をかいていた。
そもそもカラオケ自体がそんなに得意じゃないのに、ましてや歳上だらけの忖度カラオケなど処刑に等しかった。
しかし、そんな時間も面白いと思っている自分もいた。それは嘘ではない。
学外の友人と呼べる人が殆どいなかった自分にとって、そこは新しい世界のようで、普段とは違う、上の世代の人とつるんでいるのが楽しかったのかもしれない。少し背伸びをして、学生がいないようなところで遊んでいる自分に酔っていたとも言えるだろう。

突然だが、僕は南瓜があまり好きではない。「見るのも嫌」だとか「食べられない」というほどではないが、進んで食べようとは思わない。旅館の食事に出てきたら「まあ、食べてやるか」と思うくらいだ。それも残すのが悪いからという理由からであって、居酒屋で誰かが南瓜サラダを頼んでも自分はいらないと言うだろう。
その南瓜が、出てきたのだった。
先ほどの店は、和食を売りにしていた。そもそも「カラオケバー」なのか「スナック」なのかもはっきりしていないのに、店の外には和食を推すポップのようなものがあって、ますます何の店だか分からなくなっていたのだった。だから当然、お通しも和食であった。
その日も、常連客に連れられて重い扉をくぐった。今までもそうであったようにそこで酒を飲むとなると時間はもう深く、日付はとっくに変わっていた。既に何杯か酒を飲んでいて、程よく酔っていた。
店に来るのは3度目か4度目かで、なんとなく勝手は分かっていた。大体はキープされてるボトルが出てきて、それを各々好きなようにして飲む。しばらくするとお通しが出てきて、それをつまみにちびちびと酒を飲む。簡単にいえばそれ以上でも以下でもない。深夜の飲み会なんてそんなものだ。

そんな矢先に出てきたのが南瓜だった。南瓜の、おそらく煮物-他の調理法で出される南瓜を見たことはないのだが-だった。
僕は逡巡していた。もう酔っ払ってるし、腹も減ってない。そもそも好きではない。だから食べなくてもいいだろうという気持ちと、出されたものを残すことへの罪悪感がせめぎ合っていた。そして何より常連客に連れてこられているという状況が与える、重圧と言うほど大それたものではないが、なんとなく手をつけないことへの後ろめたさがあった。
ただ、運の良いことに件の常連客と僕の間の席にはアルバイト先の先輩が座っていて、横並びのカウンターということもあってなんとなくこのままやり過ごせそうな気がした。
最後に店に入ったために、僕は一番入り口に近い端の席に座っていた。自ずと、僕は隣の先輩(といっても一回り以上も年上の人なのだが)と喋ることになった。
先輩と僕はそれなりに仲が良く、またなぜか共通の趣味も多く話題が尽きなかった。彼のことはまたいずれ別のところで話したい。
とにかく、僕らは盛り上がっていた。酒も進み、野球の話、音楽の話、漫画の話...。会話に華を咲かせていた。
しかし、今になって考えればおそらくそんな僕らが常連客にとってはあまり面白くなかったのだと分かる。毎度その店に行く時は彼が会計を持ってくれていた。流石に「金を払っているんだから俺を楽しくさせろ」という程の人ではなかったが、大蔵省を放っておいて、いや、たとえ彼が奢ってくれていなくても一緒に飲みに来た人を置いてけぼりにして盛り上がってしまうのは、決していいことだとは言えまい。

純粋に話に混ざりたかったのだと思う。カットイン、だ。僕ら二人の会話が途切れたところで彼はこう言った。
「これ、食べなよ」
差し出された小鉢に入った南瓜を前にして、僕の頭は混乱した。考えることが多すぎたのだ。
咄嗟に出た言葉は「いや、ちょっと...」と、なんとも歯切れの悪いものだった。
もちろん、返ってくるのは「え?なんで?食べなよ」だった。
ここで、僕の本来持っているもの、もとい持たされてしまったものが出てしまった。
母校では「年上が絶対」であった。さながら神のようで、逆らうことなどできなかった。中学一年生。よく形容されるように、この間までランドセルを背負っていたような子供が絶対的な縦社会に放り込まれる。ある種の洗脳が行われていたのだ。
だから、その環境を出てしばらくたった後でも、その時に受けてしまった影響は簡単には拭い去ることができないでいた。表向きではまるで心を開いているような顔をして、心の中ではきっとビビっていたのだ。
南瓜と常連客。板挟みにあった僕の口から次に出た言葉は「はい。食べます」だった。
それは中学で培った「絶対的服従」であり、「はい・Yesの二択」から出たものだった。

驚いたのは相手だった。どうやら僕はよほど鬼気迫る顔をしていたらしい。つまり、自分より上の権力に怯えるような、おそらくそんな目をしていたのだろう。
彼は「え、いや無理にとは言わないけど、なんか、ごめんね」と言った。
しまった、と思った。しかし、取り返しはつかなかった。ただ、僕はその場を不器用に取り繕うように振る舞ったが、上手くいったとは到底思えなかった。
いくつか、言い訳をしたい。まず、先ほども書いたように毎度僕は一銭も出していない。彼のおかげで好きなだけ酒が飲めていたのだ。だから、心のどこかで彼がその場で一番偉いと思っていたのだろう。
そして、彼が常連客であるということがまた事を厄介にした。彼を蔑ろにするということは、自分のアルバイト先にも関わってくる。つまり、店長との板挟みでもあったのだ。
「気さくでフレンドリーで、しかし決して失礼ではない」というラインを見極める事は、あまりにも難しく、それは今でも上手くできるような気がしない。結果的に、店長、常連、南瓜の三枚の板で挟まれる事になってしまっていたのだ。
隠していたはずの自分が、ひょっこりと顔を出してしまったことに動揺し、また落胆していた。

ひとしきり場が落ち着いて、僕は久しぶりに南瓜を口にした。美味くも不味くもなかった。
小鉢にまだ残っている南瓜を見つめて、思った。たかがこんな黄色い野菜の煮物に、見透かされているような気がした。
悔しくなって、目を逸らした。南瓜をのぞくとき、南瓜はこちらの事なんか見向きもしていなかった。

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