Why We Create
漠然と死にたいと思っていた。自分はそう思っていると思っていた。
太宰の気持ちを少しだけ分かった気になっていた。しばらく先に発売日が決定した新譜の事を知ると、夏まで生きようと思った。
自分は死ぬ時はあっさりとその死を受け入れるのだろうと思っていた。なぜなら人は産まれたその瞬間から死に向かって進んでいるだけだと思っていたから。
それとも私が人の死に目にあった事がないからそんなことを思っていたのか。私が産まれる直前に亡くなった祖父の事を私が何も知らないからなのか。
タバコも酒も自傷行為の一種だと思っていた。確実に体を悪くする煙を吸い込んで、緩やかに自殺をしているのだと思っていた。
しかし、今、私はそう思っていない。
深い理由がある訳でも、何か価値観が大きく変わるような出来事があった訳でもない。
それでも今私は生きたいと願っている。生に執着しようとしている。
しばらく前に海で溺れかけた。
といっても、そこまで派手なものではない。
ただ途中で体力が尽きそうで、息が続かなくなるのが怖くて無心で背泳ぎをして事なきを得た。
しかしその時に私は諦めなかったのだ。
冒頭に書いたような気持ちを本当に持っていたならさっさと諦めていた筈にも関わらず私は必死に生きようとした。
少し前、「家ついていっていいですか」という番組を観た。普段はただ街行く人に声をかけ、その家に行くといった番組なのだが、その回はオナニーマシーンというバンドのボーカル、イノマーの内縁の妻に下北沢でスタッフが偶然声をかけるところから始まる。番組はそこからイノマーが癌を患い、最期の時を迎えるまでを追うドキュメンタリーになる。
実際のところ、私は彼のことを殆ど知らなかった。ただそういう名前のバンドがある、という事をどこかで聞いたような気がする、くらいのものだ。
しかし、一人の人間が強く生きるその様は私を画面に釘付けにした。
ライブのシーンがあった。既に病はかなり進行しており、直前の楽屋の映像では誰が見ても演奏はおろか立っている事すらままならない程であった。
しかし、出番がきた途端に大袈裟でなく顔つきが変わった。それまで曲がっていた背中はピンと伸び、ベースを弾きながら歌っていた。
なぜ、どこに、そんな力が残されているのか。私にはわからなかった。見当もつかなかった。一言で言えば「ありえない」。彼がどれだけ病に苦しんでいたのかを見せられていた視聴者は驚いたことだろう。
私はそれを見て、感動と言う言葉では安っぽくなってしまう程、およそ言語では表せない様な気持ちになったのだ。
私自身が小さいながらもステージに立つ身であるためか、より一層感じるものがあった。私の目に彼は、そこに自分が存在したという証拠を書き殴っているような、その瞬間を永遠にしようとしているような、そんな風に映ったのだ。
私は、ずっと生きることは死ぬことと同義だと思ってきた。
しかし、私は今、生きることは死に抗い続ける事だと思っている。
生まれた瞬間から死に向かっているということに変わりはない。
しかしその道中で、引き摺られる力に反するように地面に指を突き立て、自分の証を残していく。それが何かを作るということであり、私が創作を続ける理由なのではあるまいか、と思うのである。