第四章 定家の独白

順徳院は、佐渡でのお暮らしに馴れたころ、まとめていた歌集、『順徳院御百首』を隠岐にいる上皇と、京都の私あてに送ってきた。貞永元年(1232)のことである。それぞれに添削し、送り返す。また、写筆して記録する。こんな形での和歌指導は、もどかしいが、他にすべがない。

後鳥羽院も順徳院も歌の才はあるが、どんなときでも平静心を失わないのがすばらしい。さすが天皇だった方と思う。二人とも配流されたのちも、止むことなく、精力的に歌を詠まれている。特に順徳院は上達も著しく、京にいるときより、佐渡で詠まれた歌の方が、はるかにすばらしいと考えるのは、年寄りの僻目だろうか。

順徳院とは師匠と弟子の間柄である。もちろん、身分は比べようもないのだが、歌の道では、教えを請われている立場だ。それは、昔、皇太子だったときから、今も変わらない。

順徳院からの使いの者が、何度か訪れ、佐渡でもう一度、歌会を開いたらどうか、という相談を受けた時、自分は佐渡まで出向くのだろうか、あるいは、息子の為家を行かせるべきかと、真剣に考えた。

しばらく時が過ぎていく。わたしは、きっと夢をみているのだろうと、定家は思った。この世のことはすべて幻。真実を突き止めようとしてはならぬ。みたものが現実なのか、心の迷いなのか。

実朝、俊成、後鳥羽院、順徳院、みれば、母の美福門院加賀もいる。歌会の始まりの合図がでた。自分は選者の一人だった。

順徳院がもう一度、歌会を開催したといってきたとき、自分はなんと答えたのだろうか。順徳院は、佐渡の暮らしが長くなるにつれて、その歌風は、雅なものから、心を写実したものに変わってきている。今の境遇が、歌の道を洗練させたのだろうか。あるいは、日々の暮らしで、歌が補完しあっているのだろうか。

実朝は幼き時より、すぐれた歌詠みだった。彼は関東で、将軍になっても、何もできない名ばかりの境遇に、甘んじてみえたが、その裏で、人生の哀しみを知っていた。あの若さで、すべてを手に入れたようにみえて、自由になるのは、歌を作るひとときだけだった。

歌会では、みなが楽しそうに語っている。ここには身分の区別、あるいは敵味方の意識がない。みなが、ひとりの歌詠みである。人の世の定めなきこと、浮き沈みのあることを、誰よりもよく知っている。定家の父母も宮中に長くお仕えしていたから、そのあたりの事情も飲み込んでいる。

なぜ、ここに式子内親王がいらっしゃらないのだろうか。私はあの方の空気すら知らない。わずかに文を交わすだけである。そう思って、部屋の記帳の奥を眺めると、かすかに風が動いて、高貴な香りがした。あの方もここにいらっしゃるのか。思うだけで、心がときめいた。

誰かが、わたしを呼ぶ声がする。

妻だった。為家が参っております。私は、机に手をついて、しばしまどろんでいたらしい。呼びかけた妻が憎かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?