『あきらめる心を2割持つ』それは完璧主義を手放す心がけ
こんにちは。『双水みくに』と申します。
私は現在Web記事ライターの仕事に就いていますが、これまで飲食店のアルバイトから上場企業の会社員まで、幅広い雇用形態での就業を経験してきました。
そんな私はどの職業でも「完璧に」をモットーに仕事をこなしてきました。ですが、ある出来事がきっかけでそのやり方に疑問を持ち、今は『あきらめる心を2割持つ』という正反対の心がけを持っています。
この心がけは一見、不真面目な考え方で、人によっては相容れないと感じるかもしれません。けれど私にとっては、自分自身の「弱さ」を愛することができるようになった大切な心がけです。
今回は、完璧主義の私がなぜそんな考えに至ったのか、どうして弱い自分を好きになることができたのか、その経緯を書いてみようと思います。
……もし同じように完璧主義で苦しんでいる人がいたら、少しでも役に立てる事を願って。
『あきらめる心を2割持つ』理由
「完璧主義な性格」とお話ししましたが、私は決して自分の能力に自信があったわけでも、輝かしい学歴や経歴があったわけでもありません。
むしろ自信がないからこそ評価されたいという劣等感と、褒められたいという優等生気質をこじらせていました。つまりは傷つきやすい自尊心を守るために、周りからの評価を優先した結果、完璧主義が形成されたのです。
けれどその完璧主義な性格は、いつしか仕事のミスを許さなくなり、とうとう限界まで心身を追い込んでしまいました。そんな状況に陥ってからやっと自分が抱えている恐怖心や、心の弱さと向き合うことがでるようになったのです。
だからこの心がけは、サボってお給料をラクにもらおうという話では決してありません。頑張りすぎて限界を迎えた苦しい心を緩めるために、自分の心を守るために取り入れた知恵だった……そんな前提で読み進めていただけたら幸いです。
出来ることを「2割」あきらめて心身を守る
ここからは具体的なエピソードを交えて、私の『2割あきらめる心』についてお話ししていこうと思います。
まずは完璧主義で仕事と向き合った結果、心身が追い詰められてしまった失敗談から。あれは10年ほど前の、会社員時代のことでした。
とある会社に入社した私は、いわゆる「花形」と言われる忙しい部署に配属されました。私も自分の力が認められた証だと思い、喜んで受け入れた事を覚えています。
任された仕事はそれほど難しい作業ではなかったものの、ミスを犯すと多くの人に迷惑がかかり、リカバリーも容易ではない内容でした。さらに最初は余裕でこなせる仕事量だったこともあり、より丁寧に、何度も確認をしてミスを防ぎ、完璧に仕上げていこうという気持ちが強化されていきました。
けれど1年ほど経過してから、暗雲が立ち込めていきます。それは私が抱える仕事量が、予想以上のスピードで増えていったことが原因でした。
私が配属されてから、ありがたいことに売上が伸び続けていきました。ただ、それに合わせて毎日の仕事も少しずつ増え、気づかないうちに作業量が2倍ほどへと膨れ上がってしまったのです。
後輩も1人増えたことで、私が受け持つ作業はいくらか減らすことはできたのですが……それでも仕事は日に日に増え続け、捌くスピードを上げても、定時で終わらない日々が少しずつ増えていきました。
ここでさらに、私の完璧主義が悪さをします。後輩は定時に帰れる余裕があったので仕事を手伝ってもらえば良いところを、私が責任を抱えている仕事でミスを犯されたくない気持ちが強くなってしまい、自分の力で乗り切ろうと考えてしまったのです。
もちろん後輩の残業時間を増やしたくない気持ちもありましたが、不可抗力で被るミスの方が断然怖かった。だから「休憩を少し削ろう」「残業すれば何とか」とジワジワと犠牲にするものを増やしていきました。
その結果、残業が月50時間を超え、プライベートも浸食し、心の余裕もなくしていきました。今考えれば自業自得ですが、当時は過ちに気づくことすらできなかったのです。
振り返れば後輩から「手伝いましょうか」と差し伸べられていた手も、自ら払っていた心当たりがいくつもあります。完璧主義が故に周りを見る目も曇らせ、自らを追い込んでいったことは間違いないでしょう。
……結果的にその会社は辞めることになりましたが、この苦い経験が完璧主義のデメリットを心に深く深く刻み込み、「人に頼ることができない」という心の弱さも見つめ直すきっかけにもなりました。
その後は自分の心身を守るため、そして人の善意に気づける自分であるために、自分の限界のハードルを2割だけ『あきらめ』ながら仕事に取り組んでいます。
そしてその限界を超えてしまった場合、必ず「このままでいいのか」と立ち止まり、早めに打開策の提案や人との意思疎通を心掛けるようになりました。
人間関係を「2割」あきらめてお互いを尊重する
会社を辞めた後、私にとっての完璧主義は「心の弱さ」が引き起こす現象だと身に染みて理解できたのですが、それが人間関係にも及んでいたことに気づけたのはもう少し後の話です。
先ほど月50時間残業の話をしましたが、実はそのとき私より残業がはるかに少なく、優秀な先輩たちに「どうしたら残業を減らせるか」というアドバイスを求めていたことがありました。
もちろん協力的な人が大半でしたが……中には私を嫌煙するかのように避けたり「なんとかなるんじゃない」と上辺の会話と分かるような返事をする人もいました。ここでまた完璧主義が顔を出します。彼らの評価を気にしていた私は「好かれる努力をしなければ」と顔色を伺うようになってしまったのです。
他人からの評価が気になるというのは「自分に自信がない」証拠だったと思います。もしかしたら先輩たちは、そんな私の性格を見抜いていたのかもしれません。
結局、最後まで彼らは心を閉ざしたままで、どんな考えを持っていたのか分からないままでした。今でも「どうしたら協力してもらえただろう」と落ち込むこともあります。
けれど会社を辞めてから一連の流れを俯瞰できるようになったとき、最善を尽くしても拒絶されたら仕方ないのではと『あきらめる』ようにもなりました。なぜならそれは、彼らの意思を尊重することでもあると考えるようになったからです。たとえ「私が嫌い」という意思だったとしても。
今は人間関係では最善を尽くして、それでもダメなら淡々と仕事を共にするか早めに関係を離れようと心がけています。相性が悪い人とは歩み寄ることだけが全てではない……そう『あきらめる』ことで心を落ち着かせることができるようになったのです。
失敗は必ず「2割」起こるとあきらめて心を軽くする
仕事でミスができない状況に追い込まれていた私ですが、以前から失敗して人に迷惑をかけることを、何よりも怖がる性格でした。
ミスを犯すと金銭面や人の時間、そして信用を失うなどさまざまなロスが発生します。その責任を負うことが私は精神的に耐えがたく、毎日絶対にミスを犯さないことを肝に銘じて仕事していました。
ただこれが、失敗に対して必要以上に恐怖を抱える原因にもなりました。そしてまさか自分を信じてくれる人たちの心を裏切る行為にも繋がっているとは、想像もしていなかったのです。
月50時間残業のとき、私は友人にも会社の出来事を話していました。そのときになぜか「あなたを信じている自分が辛い」と言われてしまったのです。最初は何を言っているのか分からなかったのですが、逆の立場になってようやくその意味が分かりました。
それは別の友人が、罪悪感で自身を苦しめていたときのことでした。私は少しでも前向きになってもらいたいと思い、励ましの言葉や、その人の良い部分を褒めたりと声をかけました。
でも言葉は上の空で返され、差し伸べた手も無視され、何も変わることはありませんでした。そして何もできなかった自分を、少しの力にもなれなかった自分を、責める気持ちが生まれました。
このときふと、自分も罪悪感を抱えた友人と同じことをしていると気づき、これまで善意を向けてくれた人の心を数多く傷つけてきたことを知りました。それから私は自分のためにはもちろん、私を慕ってくれる人たちのために、自分の過ちを許すことを心がけるようになったのです。
人間はロボットではないので、本来は完璧なんてありえない。むしろロボットだって時々エラーで動かなくなるのに、人間に完璧を当たり前に要求するいびつさを、今はやっと気づくことができました。
もちろんミスの再発防止は怠るべきではありません。でも人間なのだから、全力を尽くしても失敗することもある。失敗したらそのときの最善をまた尽くして、次を頑張ればそれでいい……そう『あきらめる』ことで私は心のバランスを保つようになりました。
現状を「2割」あきらめて逃げ道を作っておく
月50時間残業に耐えられなくなった私は、会社を退職することを決意しました。もちろん自業自得な部分も多かったのですが、会社側に担当交代や部署移動、人員の増加を申し出ても却下され続けており、どこにも逃げ道がないことを思い知って絶望していたのです。
退職の機会は、意外と早く訪れました。私に昇給の話が来たのです。通常なら喜ぶシーンですが、私はもうこのタイミングしかないと退職の旨を伝えました。
私は過去に転職を経験してはいたものの、会社を辞めるというのはいつも大きな覚悟が必要でした。引継ぎ期間も「逃げる」ことへ非難の目を向けられている気がして、居心地がとてつもなく悪かったことを覚えています。
完璧主義者にとって「逃げる」というのは、なかなか取りづらい行動のひとつです。かくいう私も「負ける」や「恥知らず」と同義と捉えていたこともありました。どんな場面でも逃げるのは無責任であり、恥であり、負け犬の行動だと思い込んでいたのです。
けれどあるとき、その概念が一瞬で吹き飛んだ出来事がありました。それはある動画を見ただけという、とても小さなきっかけでした。
その動画は荒野の中で危険な実験を行っているところから始まり、その後ボカンと大きな爆発が起こります。実験をしている人が慌てふためきながら逃げる姿が映されるのですが……
逃げた人はそれを人生哲学とかけあわせながら「命の危機を感じたら、なりふり構わず逃げろ」という感じのセリフを残していきました。(誰の動画か忘れてしまったので、分かる方がいたらぜひ教えてほしいです)
これまでの私はもし爆発が自分の責任で起こったのならば、例えやけどを負ってでも火を止めないといけないと思い込んでいました。
けれどこのときから、自分を犠牲にして責任を負うことは全てにおいて正しい行動なのか、自分を守るために『あきらめる』こともまた正しい選択ではないのかと思い始めたのです。
逃げ道のない世界はどんな希望も白黒に染め上げ、自分を犠牲にする選択肢しか見えにくくなってしまう事を私は身をもって体験しました。だからこそまた心身が限界を迎えたときに「逃げる」ことができるよう、心の片隅に『あきらめる』を置くようになったのです。
まとめ
私が経験したエピソードをもとに書いてみましたが、これ以外にも『あきらめる』が役に立ったことはいくつもあります。それは仕事だけでなく、プライベートな方面でも良い流れを生み出してくれました。
ほんの少しでも『あきらめる』を実践してみるのは、最初はとても怖かったです。けれど思った以上に「無理しすぎていると思っていた」と言ってくれる人も多くて、さまざまな場面で肩透かし食らってしまったことを覚えています。
今でも完璧主義が出てしまうこともありますが、そういうときは「自分が頑張るだけでいい」など自責の念を少しだけ手放し、違う選択肢に気づけるよう努めています。
「私は今まで、何を怖がっていたのだろう」
それはきっと、自分自身が作り出した恐怖だったのだと思います。自分に自信がないからこそ作り出してしまった、幻影です。
もし私と同じように完璧主義で苦しんでいる人が今いたら、どうか少しでも『あきらめる』を実践して、その幻影から抜け出せることを願っています。
そして本当に大切な人や、慕ってくれる人、心優しい人たちの想いや善意に気づき、彼らとともに心豊かな人生を歩めることを願っています。
※文章内写真:「photoAC」より