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何でもできちゃうことは、不幸せへの第1歩なのではないか

小学生の頃読んでいた、日本の歴史という漫画で、旧石器時代の人々は、とても幸せそうだった。マンモスと戦い、肉を得て、皆で分かち合い食べる。男性は狩りに出て、女性は子育てと家事一般をして、皆が笑顔で暮らしているような描写が多く見られていた。

だから私は、生まれ変わるなら旧石器時代が良いな〜と考えていた。皆幸せそうだし、楽しそうだったから。しかしこれを兄に伝えたところ、「いやいや、旧石器時代なんかに行ったら常に死と隣り合わせだよ。ウホウホ、とかで会話するし、楽しいこと何もない。食べて寝てだけの生活なんだよ。絶対やめといた方が良いよ!」と大反対された(3つしか変わらないのに、兄は随分大人な思考をしていたんだなと今更気づく)

子供ながらに感じていた。
では、なぜ旧石器時代の人は、漫画ではあんなに幸せそうに描かれていたんだろう。そんなに不幸せな時代なんだったら、もっと大変なところを描いたら良かったのに、と。(漫画の話だから〜とか、旧石器時代は遺跡もあんまり残っていないからイメージで〜とかいうオトナな意見は一旦置いとく)

今大人になった私の意見としては、
「日本の歴史」編集者は、旧石器時代の生活が、人類にとって最も理想的で、幸せを感じやすい暮らしだと、本能的に考えていたからではないか、と考える。

狩りをする、得たものを食べ、衣類を織る、性行為をする、子孫を増やす、より効率的な狩りの方法を考える、皆で実践する、失敗する、改善する、、、行為一つ一つに、生きる上で無駄な行為が1つもない。生きるために必要なことを必要なだけ考え、実践する生活だ。だからこそ純粋な喜びに繋がり、その純粋さが幸せのイメージを生み出していたのではないだろうか。

現代を生きる私たちがどうかというと、社会の「部品」として生きる生活だ。分業に分業を重ね、生きる上で必要なことは殆ど他の人がやってくれる。服もある食事もある、全てが対価交換で満たされる時代だ。

部品になると幸せを感じにくくなる。
生きている実感が湧かないから。

部品にならない為にはどうしたら良いのだろう。

私が考える幸せを感じられる方法、それは「最強にプロフェッショナルな部品」になることだ。

あらゆる点で満たされたこの時代に、部品を脱するのはなかなか難しい。研究者になり新発見をするか、スティーブ・ジョブズみたいにApple設立し、世の中の基準をつくるくらいしかない。

だから、部品は部品でも、
「最強にプロフェッショナルな部品」
になることが、現代の幸せの1歩になる、
と思うのだ。

プロフェッショナルと言っても、そこに特別な定義がある訳ではない。
自分がそう感じさえすれば、プロなのである。

営業成績1位をとらないと、コンテストで優勝しないと、、、そういう相対的な基準ではなく、大切なのは自分の心だ。

あぁ、私はこの分野に関しては
誰の目も気にせず、
自信を持って説明でき、
他の誰にも負けたくない、と思えるもの。
自分で自分に酔えるもの。

それが1つでもあれば、たとえそれが社会の中では部品的要素だったとしても、きっと幸せを感じられるのではないだろうか。(私にはまだそんな分野がないので、きっと、と書かせていただく)

本当に幸せを感じづらい世の中になってしまったものです。感じづらい現代が幸せなのか、それもまた分からない。

ただ、旧石器時代のあの幸せな感覚を取り戻すためには、私たちはあらゆる物に取り囲まれた世の中で、プロフェッショナルを見つけなければならないのだ。

これはある意味、命懸けでマンモスを狩りに行くよりも難易度が高いかもしれない。

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