日暮らしの鳴く頃、蓮の花咲く頃ー被災地への旅
今年元旦の能登地震からまだ間もない頃、大学のゲスト講義で「被災地に対しても、表現で何かできることがあるかもしれない」と学生さんに話をさせて頂きながら、それでは何ができるのだろうかとずっと考え続けてきた。そのひとつに「記録」があるのではないかと思うようになった。なおかつ、当事者でない人がその役割を担うべきなのではないか――と。
先の8月3日、私は七尾駅に降り立った。震度6強の揺れを観測した七尾市は、大切な友人が結婚で移り住んでいる土地である。駅から少し歩くと、城下町ならではの美しい景色が広がる街。そこにもまだ地震の情け容赦ない爪痕があった。
近くには一本杉通りという通りがあり、そこでは夕方から、復興支援のためのイベントが催されていた。日が落ちてからは、川沿いで女性たちのコーラスがあった。「地震があってすぐ、想いをのせた歌を作ったところ、作新学院高校吹奏楽部の生徒さんたちが、ぜひ演奏したいと言って練習してくれた」というお話が、夜風とともに聞こえてきた。
翌日は能登島へ。ホテルで手配したタクシーの運転手さんとあれこれ相談しながら島のスポットを回ったり海の景色を眺めたりする。名旅館・加賀屋のある和倉温泉では、数々の温泉旅館が甚大な被害を受けているも、今も手付かずのままとなっている。大きな建物の継ぎ目が分かれてしまい、片側が傾きつつある旅館を、車を徐行させて教えてくれた。運転手さんも被災されており、ご実家の内部はもう住めない状態だが、外観は立ったままなので、「一部損壊」と扱われる、というお話もしてくれた。
崩れたままの家屋が散見される地域で、イベント出店の人たちも、家族連れの参加者も、みな笑顔だった。インスタグラムで被災地のハッシュタグをたどっても、ほとんどがお店の宣伝などポジティヴに見えた。運転手さんの語りも、「いや、僕なんかはまだいい方で・・・」と終始穏やかだった。私の友人に以前連絡したときも、「ご心配くださるだけで十分です」という返事だけだった。
正直言って歯がゆい思いだったのだ。この状況でどうしてもっとSOSを言ってくれないのかと。しかしこれをまとめ始めた今日、原民喜についてちょっと調べてハタと気づいた。広島の原爆投下後の様子をつづった代表作『夏の花』について書くきっかけとその壮絶な描写、原の最期に触れて(※1)「被災した人々が語らないのは、自分自身を守るためでもあるのではないか」と。本当に恐怖し大切なものを多く失った人々にとって、語ることは思い出すことであり、そのたびに心は傷つくからだ。
それであればこそ、余裕のある人間が、自分で見聞きしたものを言葉などで記録することに意味はあるだろう。『関東大震災 文豪たちの証言』(※2)において、編者の石井正己氏は次のように述べる。
自分で見たものを日記なり、ブログなり、ノンフィクション作品なりに、なるべくしたためておくことが、次の世代に渡すバトンになりうる。もちろん写真や動画も重要なバトンになることは言うまでもない。『侍女の物語』の作者であるマーガレット・アトウッドは「真実はひとつではなく、それぞれ”自分版”がある」という旨のことを語ったという。私もこれに賛成であり、同じことを体験しても、それぞれの場所や立場によって見えるものは異なるものだ。あくまでそれぞれが見た景色であり、正確でない記述や描写もあるかもしれない。しかしながら「自分版」の数が多ければ多いほど、点と点がつながって、当時の立体的な図を将来に伝えることができるのだと思う。
立ち入り禁止区域になっている小丸山城址公園からは、遥か彼方から鳴り響く鈴の音のような、ヒグラシの声が聞こえてきた。能登島へのドライブの道すがら、立派な蓮の花が咲き誇っていたのが見えた。季節は流れゆくが、多くの暮らしの大切な基盤は、未だ時が止まったままでいる。
(79年目の広島原爆の日に)
※1 岩崎文人氏による「原民喜の文学について」。いい記事だったので忘備録として記しておきたい。
※2 こちらもまさに表現者たちの記録。上野動物園の飼育係であった福田三郎、帝国ホテルの支配人であった犬丸徹三による経験談も興味深い。
(2024/8/9追記)
最期から二段落目「それであればこそ、…伝えることができるのだと思う」中の材料を、話の流れをわかりやすくするために前後させ、修正した。