天才のものさし
歌というメディアが好きだ。歌うのも好きだし聴くのも好きだ。メロディラインとアレンジと、歌詞の織りなす世界観が好きだ。
歌の作り手の天才性とは何だろうか、天才とはどのようなものだろうかと考えた時、その定義はたくさんあると思うが、最近私が思うのは、恋に落ちる瞬間を描ける人のことではないかということだ。そして、今私が天才だなあと思っているアーティストは、DREAMS COME TRUEの吉田美和、米津玄師、槇原敬之の3人である。
外出時の習慣としてサブスクした音楽をあれこれ聞いているのだが、私が思春期に慣れ親しんだ歌はそのほとんどがラブソングか、世界との関わりについて歌ったもの(例えばGet Wildは個人的にはここに入ると考えている)だとか、アニソンだとか、そんなものが多い。ミュージックシーンの常連としてラブソングが多いのは今も昔も変わらずだが、そのほとんどが付き合っている二人の物語か、片思いの心情を描いたものか、別れを描いたものだ。特に、思わす涙してしまうほどの名曲は、別れがテーマであることがとても多い。心が弱っている時など、それは沁みいってしまう類の。
それはなぜかといえば、別れは全ての恋人たちー元恋人たち、と言った方が良いかもしれないがーにとっての普遍的な出来事であり、そして時間がかかるものである分描きやすいものだからだろう。
一方、心ときめく出会いを描いた歌は多くはない。それも、恋する人と気持ちが通じ合った瞬間を切り取った歌は、私の知っている中だと、上記の3人の手による3曲、ドリカムの「うれしい!たのしい!大好き!」、米津玄師の「まちがいさがし」、槇原敬之の「No.1」しかない。
恋とは不思議なものである。それまでの自分の全てが一瞬で報われたような気持ちになったり、ワクワクしたり、どっと来る多幸感に浸ったり、心が急に忙しくなる。
イメージとしては、果汁少なめかつゼラチン質多めの弾力のあるゼリーがフルフルと震えるような、そんな感じ。その震えを鮮やかに描き切るのは、どんなメディアでも至難の業だと思う。
それが、上記の3曲は、メロディ・アレンジ・歌詞・歌唱テクニックと声、つまり歌の全てを駆使して人が恋に落ちる姿を描写しきっているように聞こえるので、この3曲が耳に入るたびに、感心しきりなのである。音楽の専門家ではないのでテクニカルなことはわからないけれども、どの歌も歌詞がシンプルで分かりやすい。
別れの歌は巧みな比喩が使われることが多いのに対して、だ(終わった恋をドライフラワーに例えた優里の「ドライフラワー」などは好例だと思う)。別れに対して人はなぜ饒舌になるのか、それはまだわからないけれども、そのうち思いついたらここで書きたいと考えている。
この文章を書きながらも聞いているが、それにしても、やはり歌はいい。
(C.N)
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