玉虫色の僕ら
数年前に映画が大ヒットした「鬼滅の刃」というアニメを知らない親子はあまりいないのではないかと思う。その「鬼滅の刃」の中に、主人公の炭治郎を最初に導いてくれる人物に、富岡義勇というキャラがいる。
この「富岡さん」、やたらめったら、口数が少ない。そして、憂いを含む佇まい。クールなイケメンキャラ代表かと思ったら、作中での扱いは必ずしもそうではない。
コミュ障、ぼっちキャラとして、見事なぐらい仲間の中で確立しているのである。いじられ愛されキャラではあるものの、カッコイイと憧れ慕われるキャラではない。
同じような無口なキャラクターでも、作品が違い、そのキャラクターを取り巻く人や環境が変われば、扱いが違う。周りから、一匹オオカミっぽくてカッコイイと騒がれ、主人公のライバル的な位置付けだったりするキャラが他の作品でなら、たくさんいる。
そう思うと、「富岡さん」は、今までの王道とは少し違うキャラだなぁと、古い人間は思ってしまうのだが、この「富岡さん」を通して人と人との関係で、見えてくるものがある。
それは、「自分」という人間の性格のありようが変わらなくても、環境が変われば、扱われ方が変わるということである。
周りから、無口なコミュ障と言われれば、対人関係が苦手であると自分で自覚するかもしれないが、クールでカッコイイと言われれば、そういう自分も悪くないかもと思えるだろう。
私たちは、どうしても周りからの評価を気にする。特に、思春期から青年期にかけて自分自身とはどんな人間か?と、思案する時期はなおさらである。そんなときに、マイナスの評価を聞き、「自分はダメだ」と思うことも多いだろう。でも、本当に、それが全てなのだろうか?
受け入れてくれる環境や仲間が違うだけで、評価は案外、変わりやすい。
「富岡さん」のように、「無口である」ということは、変わらなくても、それを評価する人たちが変わるだけで、「無口」=「クールでカッコイイ」と言われたり、「無口」=「コミュ障」と言われたりする。
そして、その評価の違いで周りの扱いだって変わってくる。「富岡さん」は、周りからはコミュ障だけど、天然、愛されキャラである。一方で、他の作中のキャラは、クールでカッコイイ、あこがれの人で近づきがたいキャラだったりする。
こういうすれ違いは、実は至る所で起きている。
たとえば、家庭では、甘え上手で愛されている末っ子かもしれないが、学校や外に出てみると、自分のことでもすぐ他の人に頼ってばかりで頼りない子と思われるかもしれない。
他にも、外では決断力のある頼もしい上司や先輩だと思われていても、家の中では、家族の意見を聞こうとしない亭主関白な父と思われていることもあるだろう。
環境が変われば、評価もかわることも多い。うまくいかないことが、常に自分のせいとは限らない。もちろん、だからと言ってすべてを周りのせいにすれば良いわけでもないけれど。何事にも限度もあり、渦中にいる自分だけでは、何がどううまくいっていなくて、辛い状況なのかが分かりにくくなる。
だからこそ、一人で抱え込まないことが大事だ。色々な立場の人に、話しをすることによって、自分だけでは見えなかったものが見えてくることもあるだろう。
今、家族の中で、学校や会社の中で、辛い状況にいるとしても、人とつながることを諦めないでほしい。
一筋の光は、きっと新たな人と人との関係性の中から生まれるはずだから。
(文責:K.N)