揺れ惑う
悩んでいる人、というのは何かと何かの“あいだ”で常に揺れ動いている状態なのではないかと最近よく思う。たとえば今わたしの目の前に、牛乳パックがある。これは今日のお昼から三茶庵というみことのオフィスで籠って書き物をする自分のために買ったものだ。500mlだし、紅茶に入れて飲み切ってしまえると思っていた。が、なんということか、結局飲み切らずに半分ほど残ってしまった。未開封であれば持ち帰って飲めるし、残った量がたとえば1/3くらいなら飲み切ってしまおうと思っただろう。しかし半分となると、今の私にとっては飲み切るにはなかなかしんどい量である。
こんな時他の人はどうするのだろうか。
と、このように、なんでもない事にも人の心は揺れ惑う。これが牛乳だからまだよいが、気持ちの問題だったらどうだろう。
これは以前にも書いたが、思い切れない何かを思い切ろうとするのには、かなりのエネルギーと決断力がいる。揺れ惑うことはエネルギーを消耗させるが、でもそうすることでしか味わえないこともある。一体どっちを勧めるんだとお叱りを受けそうだが、揺れることと止まることは表裏だ。止まることに伴う切なさと、揺れるやるせなさは、どちらも捨てがたい。
心は揺れ、記憶も揺れ、体感は惑う。そんな容易に揺れ惑うものの中で、揺らがないものが際立つこともあるのだと思う。
揺れている人は魅力的だし、揺るぎない何かを秘めている人にも光るものがある。要するに私からすればどちらも好ましいものに思われるのだが、揺れているその人はそれをよしとしないこともある。
でも少し考えてみてほしいのだ。揺らぐことができるのは、柔らかいものだけだ。だって、硬いものは揺らがずに折れるから。
揺らぐにはしなやかさと柔らかさが必要だ。もちろん、柔らかいだけではダメな時もある。しかしその時その場に必要な硬さと柔らかさを、私たちは揺らぎながら体得するのではないだろうか。必要な揺らぎはその時その時で違う。揺れてばかりでも消耗するが、揺らぐことができるというのは、とても大切なスキルなのだと思うことが多い。
今まさに揺れている人に何か一つ伝えることが許されるなら、揺れることは悪いことではないのだと、むしろ大切なことなのだと、私はいうと思う。
安心して揺らぐには、安全な場が必要だとも思うのだが、それはまた別の機会に。
とりあえず、どうしようか揺れた結果、牛乳は美味しく飲み干したことは伝えておこう。
(C.N)
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