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愛の凸凹

 「まほろ駅前多田便利軒」という小説がある。男性二人で営まれる便利屋がまほろ市という架空の街で大小さまざまな事件を解決していくというストーリーなのだが、その中で、主人公の男性が小学生の男の子に、ある意味残酷な真実を告げるシーンがある。今手元に本書がないのでうろ覚えだが、その少年の親は少年にとにかく勉強をさせ、それ以外は放任という形で彼に接していて、少年はそれを不満に、また寂しく思っていたように思う。そして縁あって多田便利軒の二人と出会うのだが、そこで主人公は

「お前が欲するような形の愛は、お前の親はもうくれないと思った方が良い。諦めるんだな」

とはっきりと言い放つ。しかしその後こうも言うのだ。

「だけど、お前が欲しいと思う愛の形を、お前が望めば誰かに与えることができる」と。

 二人は親子ではないというのがこの物語の大切なところだと思う(少年が親本人から同じ内容のことを言われたとしたら残酷すぎるだろう)。親が与えたい愛の形と子どもが欲しいと思う愛の形が、必ずしもマッチするとは限らないのが親子の難しいところであろう。

 冒険したいと息巻く子どもの背中を押すのも愛だろうし、まだ早いと子どもの前に立ちはだかるのも愛かもしれない。親が理想とする職業や学歴に向かって邁進するよう仕向けるのも一つの愛だろうし、本人が興味関心を寄せるものに全力投球させるのもまた愛だろうと思う。

 では真実の愛とはなんだろうか。愛に正解はあるのだろうか。そもそも、その他の心理的課題の多くと同じように、子育てと同じように、愛にも正解などないのではないか。

 そして正解はないくせに誤解はしっかりあるのが愛の皮肉なところで、子どもの声を聞かずに自分の子ども時代を焼き直すかのように過ごさせたり「これがこの子のためになる」と固く信じて厳しく接していくうちに親子の関係が拗れてしまったりすることもある。

 特に、既に一般的な言葉になりつつある「毒親」の多くは、自分の人生を決して超えないように子どもに呪いの言葉をかけて縛り、心を、時には体すら自由にさせないこともある。愛の名の下に、支配―被支配の関係を成立させてしまうのが毒親であったりモラハラをする人だったりするのだ。

 だから大人はどんな立場であれ、パートナーや子どもに自分の与える愛こそが至高とは考えず、相手が欲しいと願う質量に見合った愛かどうかということにだけ目を向けているくらいが良いのかも知れない。

 特に子どもは、いつか元の家族から巣立っていく存在だ。その事を忘れずに、子どもが自分とは異なる世界に旅立つための礎となることが、親の役目なのではないかと最近思う。
            (文責:C.N)


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